アラファト

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特報

人間アラファト 光と影
 「マー・ダーア・ハック・ワラ・ターリブ(求める人がいる限り、権利は消えない)」−。アラブの教科書に必ず載っていることわざだ。パレスチナ闘争を指している。その主役を半世紀にわたり務めたパレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長が亡くなった。光があれば、影がある。一人の人間「アブ・アンマール(同議長の俗称)」にも栄光と哀(かな)しみが交錯した。 (田原拓治)

 「アルクドゥス(エルサレム)とパレスチナは私自身なのだ」。アラファト議長の口癖だった。「英雄」を演じ続けた名優。だが、その素顔は見えにくい。関係者の記憶をたどると−。

 愛国者だった。一九四八年の第一次中東戦争。イスラエルがアラブ連合軍を破り、建国を宣言した。少年アラファトもアラブ連合軍の弾薬運びを手伝った。

 「武器を放棄せよ、とアラブ連合軍の指令が聞こえた。われわれは(中立のはずの)英国にもアラブの国々にも裏切られたのだ」

 当時からアラブの指導者たちはパレスチナの大義を雄弁に口にしていたが、難民となったパレスチナ人は流れ着いたアラブ諸国で厄介者扱いされた。教育程度が高く、商才にもたけたためか、「ヤフード・アラビー(アラブのユダヤ人)」と敵視さえされた。

 一方、パレスチナ人青年らの独自の抵抗組織は各国で激しく弾圧された。「投獄者の家族に寄付を運んだだけで捕まった」(PLOの古参幹部)。アラファト議長にとり、敵はイスラエルだけではなかった。言葉とは裏腹に他のアラブ指導者もまた、敵だった。彼は行儀の良い汎アラブ主義を説く左派とは対照的に、パレスチナのみを愛した。それが民衆の心をとらえた。

 やがて、アラブ諸国を見返すチャンスが訪れる。たった六日間で、イスラエルにアラブ側が完敗した第三次中東戦争の翌年の六八年三月。彼が率いる貧弱なパレスチナの部隊が、ヨルダン川近郊カラメでイスラエル軍の戦車をゲリラ戦で撃破した。「パレスチナ」が歴史の舞台に上った。

 その後もアラブ諸国との攻防は続いた。八〇年代、シリアはPLO指導部を分裂させ、ヨルダンは連邦国家の名で、従属を迫った。そうした弱肉強食をしのぐ中で、悔しさも募る。「PLOは所詮(しょせん)、国ではない。彼は国際会議で対等に大統領と呼ばれたかったのだ」(元側近)。彼の愛国心はそこに集中していく。

 それは同時に「老い」との競争でもあった。九〇年代の和平交渉。譲歩に次ぐ譲歩が続いた。苦渋は建国のためだった。だが、民衆の愛国心は譲歩するほど傷つく。民衆の求心力たり得た彼の愛国心がいつの間にか、民衆のそれと相克していた。やがて権力亡者、老醜とすら批判された。

 現実主義者だった。傘下組織のハイジャック事件などで世界を揺るがした七〇年代。そのころ、彼は側近にこう語っていた。「どんな交渉も厳しい戦争が前提になる」。本音では、武装闘争も「戦術」にすぎないと割り切っていた。

 その思いは、七三年の第四次中東戦争で確信に変わる。終盤、アラブ世界が誇るエジプト、シリア軍がイスラエル軍の反撃で敗走するシーンを目の当たりにした。PLO単独でのパレスチナ「武力解放」などあり得ない、と再確認した。

 イスラエルは壊せない。共存しかない。結論は、全土解放とはほど遠い「パレスチナ・ミニ国家」路線だった。本来、奪還すべきパレスチナの四分の三の領土を捨てた。パレスチナ人の約半分に当たる四百万人の難民が祖国に帰還する望みも事実上、切り捨てた。

 そんな現実主義者がたった一度、情に惑わされた。それは結局、彼の夢を打ち砕いてしまう。イラクのサダム・フセイン前大統領との「友情」だった。八八年、占領地(現自治区)で第一次インティファーダ(民衆蜂起)が起きていた。当時、アラファト議長はバグダッドから指揮していた。

 PLOは資金難だった。「兄弟、困っていることはないか」。借家にフラリと訪れたフセイン氏は、固辞する議長にその場で年間五千万ドル(六十四億円)の寄付を約束した。さらにフセイン氏はPLOがすでに認め、イラクが公には反対していたイスラエルの承認(国連安保理決議二四二)すら黙認すると言った。

 そんな「恩義」から湾岸戦争で、PLOはイラクを支持する。だが、この判断ミスが戦後、大きくたたった。インティファーダへの国際世論の同情は消え、その後の和平交渉で徒手空拳を強いられた。

 戦士だった。「真のリーダーは戦場にいる者だ」。アラファト議長がPLOで主導権を握る機会となったカラメの戦いで、彼はこう宣言している。その後、ヨルダン、レバノンとPLOの主戦場には常に彼の姿があり、民衆を鼓舞した。

 「(自らが率いるPLO内の最大党派)ファタハは私のマシンだ」。そのせりふに端的なように、彼は流浪する軍団を中央集権制でまとめ上げる天才だった。

 しかし、九〇年代、和平交渉の時代に入り、その統率力があだとなった。流れ者のコマンドではなく、定住していた自治区の住民らが求めたのは民主主義だった。ゲリラの「領袖」は「独裁者」とみなされた。

 「パレスチナにはアラブ一の施設があるんだ。何だ? 政治犯の刑務所さ」(ヨルダン川西岸の青年)

 現在、物議を醸している三億ドル(米フォーブス誌)に上る個人名義の蓄財も同じ意味がある。「なぜ、ファタハに属しているかって? 他の組織よりもメシがいいからさ」(レバノンの元コマンド)。戦闘員にばらまけることがリーダーの条件。カネは力だった。そんな「戦時」感覚は終生、抜けなかった。

 鉄の意思があった。アニメ好きで無類の子ども好きという一面とは裏腹に、政敵には冷酷なまでの仕打ちをためらわなかった。

 七〇年代初頭にはファタハ内部で民主派だったアブ・サーレハ氏らを事実上のクーデターで追放した。ほぼ同時に放逐された故アブ・ニダール氏は二〇〇二年八月、イラクで客死するまでアラファト議長をうらんで生命を狙い続けた。

 ライバル組織だったパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に対しても、その弱体化を狙い、有力な政治局員だったバッサム・アブ・シャリーフ氏を一本釣りした。しかし、厚遇したのは数年間だけ。その後、「政治顧問」の肩書こそ与えたが事実上、飼い殺した。

 「だれもいない、だれもいないのだ」。そのシャリーフ氏が、晩年のアラファト議長に汚職にまみれた側近を切るよう苦言を呈した際、アラファト議長は力なくつぶやいたという。一人で靴下を繕う姿を見たこともあったという。背中には孤独がはりついていた。

 「彼は自分しか信じられない」(シャリーフ氏)。継母に虐待された幼年期を含め、家庭にも恵まれなかった。独裁者の定めか、後継者は育てなかった。

 卓越したアラファト議長の資質は「英雄」の栄光と晩年の汚名を与えた。時代がそれを振り分けたのだろう。彼の死去の日も、パレスチナ自治区はイスラエル軍に閉ざされた。自治区は「占領地」に逆戻りした。

[オピニオン]アラファトとお金 †

「私はパレスチナと結婚した」と語っていたヤセル・アラファトパレスチナ自治政府議長だった。生涯を武装独立闘争に努めた同氏が、1990年、還暦を過ぎた年齢に、34歳も下の若い女性と秘密裏に結婚式を挙げた。フリーランサー記者として訪ねてきた彼女に一目ぼれした状態だった。

幸福は長く続かなかった。「ガザ地区は衛生状況が悪く、病院に行けない」とし、フランスへ渡って娘を産んだ後は、10年連続し豪華なホテルに滞在していたからだ。アラファト議長は、妻に毎月10万ドル(約1000万円)を送った。

◇そんなスーハ・アラファト議長夫人については、うわさが絶えなかった。側近らを近寄れないようにし、秘密資金のことを公表してからこの世を去るようにと、アラファト議長に強要したはずだとの見方も出ている。

フランス検察当局が、巨額のマネーロンダリングを行なった疑いで取り調べているくらい、スーハ氏は「アラファト腐敗」の一要因に選ばれてきた。パレスチナ民族主義の象徴、またはテロリストとされるアラファト議長も、愛には弱かったもようだ。

◇「アラファト議長は幼いころ、大将の遊びをする際、命令に逆らうアラブの子どもを殴ったりした」と同議長の姉が回想する。優れたリーダーシップの持ち主だと自慢したが、実際、アラファト議長の「権力の源泉」は金だっただろう、というのがイスラエル側の見方だ。

アラブ諸国はもちろん米国から受け取った援助金とパレスチナの税金、不法に運用し作った資金など、知らされたものだけでも2億ドル(米紙フォーブスの推定)から60億ドル(米国とイスラエル情報筋)の間だ。アラファト議長は、その金で強大な秘密警察を維持し、側近の忠誠を買っていたとのこと。

◇独立運動のためには、金が必要とされるのが事実だ。過ちのため偉業が卑下されてもならない。だが「アラファト議長がパレスチナの人々のために使った金は一銭もない」というのが、2年前に、米CBSテレビの番組「60分」に出演した会計士の証言だ。兵士のように狭い寝床で眠っていたという同氏が、何故、スペイン・イタリア・フランスなどにホテルとリゾートを所有していたのだろうか。

オスロ和平協約以降、イスラエルから税金を返してもらってから、自分の名義でテルアビブの銀行に預けておいた後、幸せを感じただろうか。アラファト議長は「ラジオパレスチナ」とのインタビューで「戦争は夢で、平和は悪夢だ」と話したことがある。パレスチナの悲劇は、同氏の悲しみであると同時に黄金だったわけだ。「絶対権力」は絶対的に腐敗すると言われている。






2007-03-10 (土) 21:30:12 (3851d)