テューダー朝のエリザべス1世は、彼らと協調して絶対王政の最盛期を現出させたが、エリザべスの死後、ステュアート朝のジェームズ1世が即位すると、彼は王権神授説を唱えて、中産階級中心の議会と対立。その頃の中産階級は、ピューリタンが多かったが、ジェームズ1世は、国教を強制し、かれらの反発を受けた。次のチャールズ1世も議会無視の態度をとったので、議会は1628年「権利の請願」を可決したが、王は翌年議会を解散し、以来11年間議会を召集せず専制政治をおこなった。しかし、スコットランドの反乱鎮圧で財政難におちいり、短期議会、長期議会を召集することになった。議会は大諫議書で王の失政を非難し、それに対し王が武力干渉を図ったことから、長期議会の最中の1642年ついに内乱が始まり、ピューリタン革命に発展。
議会側ははじめ劣勢であったけれども、クロムウェル率いる鉄騎隊、新型軍の活躍で議会派が勝利。議会主権を主張する独立派のクロムウェルは、議会内多数派で穏健な立憲王政を主張する長老派を追放し、チャールズ1世を処刑して一院制のコモンウェルス(共和政)の樹立を宣言。クロムウェルは、成年男子普通選挙を主張する水平派や土地の共有を主張する真正水平派を弾圧し、護国卿に就任して事実上の独裁を行った。彼の政権基盤が産業資本家と自営農民にあったことから、クロムウェルのアイルランド征服、航海条令の発布といった政策は彼らの経済的利害と密着していた。中でも、航海条令はオランダの中継貿易の排除を目的としていたので、三次にわたる英蘭戦争のひき金となり、イギリスの海外発展と産業発達の基礎を確立。
クロムウェルのあまりに厳格なピューリタニズム政治は国民の不満を招き、彼の死後まもなく王政復古となった。議会を尊重するという条件で即位したチャールズ2世が旧教復活などの反動的な政治を行ったので、議会は1673年審査律を制定して非国教徒の官職追放を規定し、さらに1679年人身保護律で、「権利の請願」の人権尊重を立法化。しかし、チャールズ2世のあとを継いだジェームズ2世は「審査律」を無視して旧教復帰政策を強行。議会内にはジェームス2世の即位を契機に、王権を尊重する保守的なトーリー党、民権伸張を主張する自由主義的なホイッグ党が生まれたジェームズ2世の議会無視に対し、両党は協力して1688年に王の排斥を決意し、王女メアリーの夫オレンジ公ウィリアムを王に迎えた(ウィリアムが、フランスのルイ14世の侵略に抗するプロテスタントの闘士だった)。ジェームズ2世はフランスに亡命し、この革命は無血に終わったので名誉革命と呼ばれる。ウィリアム3世とメアリー2世は共同で王位につき、議会が即位の条件として出した「権利の宣言」を法文化して、「権利章典」として発布した。これは、マグナ=カルタ以来の民権と議会主義の原則の確認を意味していた。
ウィリアム3世の死後、アンが王位につきスコットランドを併合し、大ブリテン王国が成立した。アン女王の死後、ステュアート朝は断絶し、ドイツから遠縁にあたるジョージ1世が招かれてハノーヴァー朝が開かれる。ジョージ1世はドイツ語しか話せなかったので、国王に代わって閣議をとりしきる首相つくられ、内閣は議会に対して責任を負うという責任内閣制が生まれた。議会の多数派を背景としてウォルポールが初代首相となり、「王は君臨すれども統治せず」というイギリス立憲政治の基礎が確立。
主張 | 構成段階 |
長老派 | 立憲君主政 | 郷紳、商業資本家 |
独立派 | 共和政、制限選挙 | 産業資本家、独立自営農民 |
水平派 | 共和政、普通選挙 | 小農、賃金労働者 |
真正水平派 | 共和政、普通選挙、土地の共有 | 貧農、失地農 |