イギリスに古典的資本主義が成立する発端を遡ると,中世社会に行きつく。その特徴であった封建的荘園経済は,最初からこの国全体を覆っていたわけではない。イギリスでは,発展した商品経済の影響を受けて,早くも14世紀末に,地代の金納化か全国的規模で進められていた。このことが農業経営そのものを領主の支配下から独立させると共に,土地の所有関係をも逆転させていくことになったのである。商品経済が進む中で,富裕なものと没落していくものとに農民層の分解が促進され,一方は独立自営農民に,他方は没落してプロレタリア化した。そして,独立自営農民は商品生産の担い手となり,封建社会の秩序を根底から突き崩していった。すなわち,彼らは農村において,需要の高まってきた毛織物業などを独自の力で営み,没落した農民を雇って,マニュファクチュア(工業制手工業)化を進めた。
この毛織物業のマニュファクチュアの発達は,その原料獲得のために,農地を牧羊地に転換させるエンクロージャー(囲い込み)運動を促進させた。 15世紀末から17世紀までに,およそ52万エーカーが囲い込まれたといわれている(第一次エンクロージャー)。
マニュフアクチュアの登場は良材に農村工業都市を出現させると共に,その生産力によって,都市の問屋商人織元を圧迫した(ギルドの解体)。彼らの生産力に支えられ,イギリス重商主義はオランダやスペインとの競争に勝ち,大英帝国繁栄の基礎をつくり上げたのである。農村におけるマニュフアクチュアの興隆と封建領主やギルドの没落が進む中,その二つの頂点に立っていた絶対王政も,これら新興の中産層の力を押え切れなかった。そこで王権による特権の保護やギルド再編成の動きに対抗して,「産業の自由」を褐げたブルジョアジー・地主らは,市民革
命を起こすことになったのである。その勝利によって,経済的には商品生産・流通の自由の確立をみるのである。以上のように,封建的なマナー(荘園)経済の崩壊からマニュフアクチュアの興隆,そして市民革命にいたる。
19世紀中葉までに,農工向部門からの加速度的・連鎖的技術革新の恩恵を受けて,イギリスは「世界の工場」として君臨することになった。だが,この繁栄はそう長くは続かなかった。その要因は次の二つの点にある。
そのような企業形態の典型的な実例の一つとして,石油業界で著名なシェルも,その設立以末長く同族会社であったことがあげられる。株式会社になったのは1898年であり(会社法は1856年すでに成立していた),次いでそれを再編成し,ロイヤル・ダッチ・シェルという独占体になったのは,1907年である。その時,この会社の支配権は,イギリスからオランダに移っていたのである。
もう一つの貿易構造の問題については,たとえばイギリスの代表産業である「鉄鋼」は,コモンウェルス(英連邦)以外の世界市場でも19世紀末の恐慌期にドイツに敗北している。従来からの主要産業である「綿製品」だけがかろうじて競争力を有していた。そんな状況下で貿易収支は常時赤字であり(「世界の工場」であった時も赤字),それは常に貿易外収支(資本輸出・海運・保険等の利子収入)の黒字によって賄われていた。
何故それ程までに海外投資が多かったのか。それは,後進国の発展がイギリスの国際競争力を弱体化させたからである。それ故,イギリスは生き残りをかけて,海外投資という無形貿易に力を入れた。そこでの収益が再輸出され,価値を増殖していった。海外の経済発展に寄生して繁栄する金利生活者経済,これがイギリスの特質であった。
また資本輸出がなぜそれ程までに多かったのかは,資本は利率の高い方に流れる,という資本の論理による。ケインズを嘆かせたように,イギリスの利率は極端に低かった。この低利子政策が国内産業の要請を無視して行なわれていたとしたら,国内産業は資金不
足に陥り,競争力をつけることは困難である。よって,貿易構造が脆弱になるのは,しごく当然の成りゆきだった。
第二次大戦後においてはイギリスは,上記の脆弱部分を国有化,更には福祉国家の形成という形で乗り切ろうとした。しかし,その後の70年代の経済停滞の中でその方向も問い直されることになったのである。「イギリスの再生」が課題となっているのである。