イデオロギーという概念の影響を受けたのが初期社会主義のサン=シモンらや,マルクス。特にマルクスは,「現実から離れた空論」という性質を利用して,現実に対応しているように説明。支配者階級による彼支配者階級への支配の正当化を行うための道具であると説明する。ここに階級という概念が登場してくる。さらに,マルクス主義におけるイデオロギーは虚偽意識として認識されるため,自らの意見についてはイデオロギー的立場を認めなかった。
こうした立場をK.マンハイムは批判。そして階級だけではなく社会集団や社会的諸存在にまで拡大したのであった。彼の述べた「存在被拘束性」はどのような社会的集団も存在諸要因に制約されるものであるとしている。
H.J.アイゼンクは,「意見・態度・アイデオロジー」という段階を経てアイデオロジーが生まれることを指摘している。彼は,意見が評価の段階,態度が準拠の段階,そしてアイデオロジーが信念の各段階であるとし,アイデオロジー単独では発生しないことも述べている。
それから,イデオロギーを心理学的に考察すると内面化あるいは内在化という問題が出てくる。客観的に外在するイデオロギーが,教育などを通して個人の意識に投影されたものを個人的イデオロギーという。アメリカの学者が個人のもつ信念体系をイデオロギーと呼び,社会心理学の手法や統計調査を下に明らかにしようとしたものである。
こうした変化の一方で,D.ベルやS.M.リプセットらによりイデオロギーの終焉論も見られたが,これは古典的イデオロギー論であるマルクス主義的なイデオロギーに対する批判として生まれている。
マンハイムは,マルクス主義におけるイデオロギーの見方をさらに徹底し,プロレタリア階級の知識もまた,「真正な科学]であるというよりも、彼らの立場や,属している階級,集団によって制約されていると考えた。そして,およそ社会的知識や思想は,それを発展させたものがどの集団や階級であれ,すべて社会的に制約されていると主張し,これを「知識の存在被拘束性」と名付けた。
彼は『イデオロギーとユートピア』(1929年)において,現状を粉飾・隠蔽するための理念を「イデオロギー」と呼び,それと対比して,新たな制度の創造を求める思想を「ユートピア」と呼んで両者を区別した。彼はさらに,イデオロギー諸の不正確性を批判し,「イデオロギー」という概念の使用をなるべく避け,存在により拘束された視座構造=パースペクティブという用語を使用している。
20世紀のフランスを代表する知識人の一人,レイモン・アロンは,西欧における経済的進歩と生活水準の向上が全体的イデオロギーの機能を消滅させ,イデオロギー的対立を緩和させる方向に働いていることを指摘した。これに対して経済的進歩の諸課題がいまだ解決されていない他の地域においては,こうしたイデオロギーは依然として民衆を支配し,これを動員するための道具として有効であるという。
このようにアロンは,経済的段階や工業化の度合いから,「脱イデオロギー化」を説明しようとした。しかし,それでもフランスの知識人は,マルクス主義の色眼鏡を通じてしかものを見ようとせず,アロンは,マルクス主義は「知識人の阿片]と化している、と断じた。
アメリカの社会学者ダニエル・ベルは,『イデオロギーの終焉』(1960年)において,最近数十年間に起こった知識人の政治的経験,特に戦争,ファシズム,スターリン時代の諸経験に照らして,古い諸イデオロギーが急速にその魅力を失ってしまったことを強調。
イデオロギーを信奉した知識人たちは,政治的経験(スターリン主義やハンガリー動乱など)に照らして幻滅を感じ,イデオロギーに失望した。それとともに西欧世界では、知識人たちの間に政治問題に関する現実的な合意の幅が拡がりはじめたので,この点からもイデオロギーの時代は終わりつつあるという。
しかし,アジア,アフリカでは逆にイデオロギーが切望されている。
たとえば工業化,近代化,ナショナリズム,汎アラブ主義などのかたちをとる。