India
二五州と中央政府の七直轄地から成る。
バラモン教・仏教・ヒンズー教の発祥地。
インダス文明が栄えたのちアーリア人が侵入。
紀元前四世紀のマウリヤ朝による統一以後も統一と分裂を繰り返し、イスラムも侵入。一六世紀末にムガル帝国が成立するが、1600年イギリスが東インド会社を設立し植民地化を進め1858年直轄領とした。
インドでは、アーリア人の侵入後「ヴェーダ」と呼ばれる神の讃歌がつくられた。最古のものは「リグ・ヴェーダ」。この頃から階層的身分制度のカースト制が形成され、この制度の上にバラモン教が成立
紀元前6世紀頃に、ゴークマ・シッダルタによって、新たに仏教がおこされ、以後マウルヤ朝のアショカ王や、クシャーナ朝のカニシカ王の保護の下で仏教は次第に勢力を拡大。
一方、南インドのサータヴァーハナ朝で、は、バラモン教固有の文化が維持され、グブタ朝成立とともに再びインド文化が復活し、バラモン教を土台としたヒンズー教が成立し、インドの宗教の主流となった。ヒンズー教と結びついたカースト制度も、マヌ法典によって固定された。
サンスクリット文学では、詩聖カーリダーサが現れ、「シャクンタラー」が著された。
美術も、クシャーン朝の時代にギリシア美術と融合したガンダーラ美術と異なり、純インド的なグプタ様式が確立。なかでも、日本の法隆寺壁画に影響を与えたアジャンク石窟寺院の壁画は有名。
インド帝国成立後イギリスによる開発が進められたが、次第に民族意識が高まってきた。官吏、知識人、ヒンズー教徒を主としたインド国民会議は、最初は親英的であったが、1905年イギリスが民族運動を弾圧するためにベンガル分割令を出すと、翌年スワラージ(自治獲得)、スワデーシー(国産品愛用)、英貨排斥などが議決された。これに対して、イギリスは、ベンガル分割令を廃止する一方で、イスラム教徒に全インド=ムスリム連盟を組織させて国民会議に対抗させた。
第一次世界大戦がおきると、イギリスはインドの協力を得るために、自治を公約したが戦後それを履行せず、かえって1919年にローラット法を制定して民族運動弾圧を図り、民衆を虐殺した。このアムリッツァ事件を契機に、国民会議派は、ガンディーの指導の下に非暴力・不服従運動(サチャグラハ運動)を展開し、1927年には、急進派のネールの指導の下でラホール大会においてプールナ・スワラージ(完全独立)を決議し、反英運動を全国的に展開。イギリスは、指導者を逮捕する一方、英印円卓会議を3回にわたりて開催し、1935年に改正インド統治法でイギリス連邦内での自治を実現させたが、インドの独立運動はその後も継続。
第二次世界大戦後、イギリスはインドの完全独立を承認した(1946年)。インドでは、国民会議派のガンジーが統一インドを主張したのに対して、全インドムスリム連盟のジンナーはパキスタン分離を主張して対立した。1947年のインド独立法によって、インド連邦とパキスタンの二国が自治領として独立した。しかし、独立後も両国の抗争は、特にカシミールの帰属を巡って続いた。1954年、インド連邦の首相ネールは、中華人民共和国の首相周恩来と会談し、平和五原則を発表したが、1962年には、チベット国境紛争で中印紛争が発生する。
インドが、米ソに援助を求めたことから、中ソの対立が激化することとなった印パの対立はその後も続き、インドが東パキスタンの独立運動を支持したことを契機として、1971年印パ戦争がおきた。インドの勝利によって、東パキスタンは独立し、バングラデシュ人民共和国が成立した。この紛争に際して、ソ連がインドを、中国はパキスタンを支持し、中ソ対立は激化。