「正統主義」が領土関係の処理の基準の一つとなった結果、ヨーロッパ諸国の政治体制は、革命前の状態が復活し、アンシャン=レジームの再現となった。
メッテルニヒは、「正統主義」の原則を受入れ、フランスを含む五大国の「勢力均衡」によりヨーロッパの秩序回復を考えた。「勢力均衡」は大国による小国の分割の正統化の原理として利用され、ポーランドのように、小国は事実上大国によって分割された。
ドイツでは、中世以来の300余の両領邦が30余に整理整合されドイツ連邦が形成された。ウィーン会議は、弱小国の犠牲によってヨーロッパを再構築した。
ウィーン会議は、「勢力均衡」の名の下に各国がそれぞれ自国の強大化を図る領土獲得合戦の場でもあった。
ウィーン体制を維持するには、各国の指導者が協調をはかって、諸国内に台頭しつつあったナショナリズム、リベラリズムを抑える必要があった。この協調を歴史上「ヨーロッパ協調」と呼ぶ。
「ヨーロッパ協調」の柱は神聖同盟と四国同盟。
これに対して、ヴェルサイユ条約と国際連盟との関係にも似てウィーン体制の実質機構となったのが、四国同盟である。
1818年にはフランスもこれに加盟して、五国同盟となった。五国同盟は、ヨーロッパの現状維持とウィーン体制擁護を目的としていたが、リベラリズムとナショナリズムはヨーロッパの秩序と平和を乱す危険があると考えたメッテルニヒの指導の下で、次第にリベラリズム、ナショナリズムを抑圧する反動的機関に変化していった。
ドイツでは、憲法制定、ドイツ統一、大学の自由をスローガンにしたブルシェンシャフト運動(1817-19)が起こるが、メッテルニヒのカールスバートの決議により弾圧された。イタリアの統一を求めて起こされたカルボナリ党の乱(1820年)はオーストリアに、また農奴制の廃止を掲げたロシアのデカブリストの乱(1825年)はニコライ1世によって鎮圧された。1815年から30年頃のヨーロッパは、反動政治が優越した時代。
ウィーン体制の最初の破綻は、ラテン=アメリカの独立運動である。ラテン=アメリカではシモン=ボリバルらの指導で独立運動が激化。メッテルニヒは、干渉を加えようとしたが、ラテン=アメリカを自国産業の有力市場として期待したイギリスの反対と、アメリカのモンロー主義で失敗した。
ついで、オスマン=トルコに支配されていたギリシアが独立しようとした。
当時西ヨーロッパではフィル=ヘレニズム運動(ギリシア文化愛好主義)が高まり、イギリスの詩人バイロンらが義勇軍に加わって、独立運動を援助。ロシアは、バルカン半島への南下を図り、ギリシアを援助。英、仏もロシアの野心を警戒して、ギリシアを援助したため、これを弾圧しようとしたメッテルニヒの計画は失敗し、1830年にギリシアの独立は達成された(ロンドン会議)。
こうして、五国同盟の協調は崩れていき、ウィーン体制は動揺を始めた。
ウィーン体制の崩壊とヨーロッパの諸革命
ウィーン体制の下、フランスではブルボン朝が復活。
シャルル10世の時代に、アルジェリア出兵で国民の不満をそらす一方で議会の解散、言論弾圧、選挙法の改悪(選挙資格の制限)など反動化が強まったため、産業革命の開始を背景にパリの有産市民を中心として1830年7月に七月革命がおきた。
シャルル10世は亡命し、ラ=ファイエット、ティエールらの革命指導者によってオルレアン家のルイ=フィリップが王に迎えられ、立憲王政が成立。七月王政(オルレアン王朝)である。七月革命は、ウィーン体制の抑圧に苦しんでいたヨーロッパの諸国のナショナリズムを刺激し、ベルギーの独立、ポーランドの反乱、イタリア統一運動、ドイツ統一運動などに波及。こうしてウィーン体制は七月革命で重大な挫折に遭遇し、やがてナショナリズムの時代を迎えた。
七月王政の下では、少数の金融資本家と結ぶ金融寡頭政治が行われ、選挙法は改正されたが、有権者は高額の財産所有者に限られ、国民の0.6%にしか過ぎなかった。産業革命の進行にともない台頭してきた産業資本家や労働者は、制限選挙の撤廃を求めて「改革宴会」と呼ばれる政治集会を開き、政府を攻撃した。政府が「改革宴会」を弾圧すると、パリの民衆は再び蜂起し、1848年2月2日間にわたる市街戦の未政府を打倒。二月革命である。ルイ=フィリップはイギリスに亡命し、共和派のラマルティーヌらが、共和政の臨時政府を樹立し、ここに第二共和政(1848〜52)が成立。
ヨーロッパの各国では産業革命期に入り、リベラリズムも普及していたので、二月革命は他の諸国の革命・改革運動にも影響を与えた。