ゲルマン民族

「ゲルマン民族」についてのメモ。ゲルマン民族とは…
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ゲルマン民族 †

  • インド‐ヨーロッパ諸族に属する民族。
  • 原住地はバルト海沿岸地方。前8世紀ごろから南下して中部ヨーロッパに定住。4世紀後半、大移動によってローマ帝国領内に侵入、ヨーロッパ全域を席捲し、現在の西ヨーロッパ諸民族の祖先となった。

ゲルマン民族の移動とフランクの発展 †

ゲルマン民族はもともとバルト海沿岸に現住していたが、次第に傭兵、コロヌス、官吏として平和的にローマ帝国内に移住していった。移動する前のゲルマン人を原始ゲルマン人といい、その様子はカエサルの「ガリア戦記」、タキトゥスの「ゲルマニア」に描かれている。ゲルマン民族の移動でヨーロッパの中世は始まった。

フン族のヨーロッパの侵入を契機として、375年西ゴート族がローマ領内に移動を開始し、これに誘発されて他のゲルマン諸族も移動し、各地に建国。ゲルマン国家は、支配者であるゲルマン人が少数であったため、支配の維持は困難を極め、原住地を保持して拡大移動を行ったフランクとイングランド王国をつくったアングロ・サクソン以外は、5〜8世紀に滅ぼされた。

他のゲルマン諸族が異端とされたアリウス派に改宗したのに対して、北がリアに定着したフランク族は、メロヴィング朝のクローヴィスの時に、正統アタナシウス派キリスト教を取り入れ、ローマ・カトリック教会の支持を得て、発展の基礎を固めた。メロヴィング朝の実権は、宮宰のカロリング家が掌握しており、中でもカール=マルテルがトゥール=ポワティエの戦いで、ウマイヤ朝のイスラム軍を撃退してから、一層勢力を拡大していた。カール=マルチルの子ピピンの時に、教皇の支持を背景に、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝を開いた(カロリング革命)。ピピンは、ロンバルド族を征討し、ラヴェンナ地方を教皇に寄進した。これが、教皇領の起源。

ピピンの子カールの時に、フランク王国は東ヨーロッパにまで支配領域を拡大し、最盛期を迎える。800年、カールは教皇レオ3世から西ローマ皇帝の称号を受けた。しかし、ゲルマン古来の分割相続の慣習と領土維持の困難さから、カール大帝の死後、王国はヴェルダン、メルセン両条約で東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国に三分割され、これが後のドイツ、フランス、イタリア三国の基礎となる。
メルセン条約の条約文に、すでに三地域における言語の相違があらわれている。






2007-03-10 (土) 21:31:54 (3853d)