- 1769年〜1821年
- フランス第一帝政の皇帝(在位 1804-1815)。
- コルシカ島の下級貴族出身。
- 砲兵士官としてフランス革命に参加、王党派の鎮圧に活躍。イタリア遠征では司令官として戦功をあげ名声を得る。1799年クーデターにより統領政府を樹立、第一統領となりナポレオン法典編纂・産業保護など近代化に努める。
- 1804年皇帝に即位、列国と交戦を重ねイギリスを除く全ヨーロッパをほぼ制圧した。
- しかしモスクワ遠征の失敗、諸国民の解放戦争激化により14年退位、エルバ島に流される。15年復位して「百日天下」を実現したが、ワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナ島に幽閉され没した。死因は胃がん
ルイ=ナポレオン/ナポレオン三世 †
- 1808年〜1873年
- フランス第二帝政の皇帝(在位 1852-1870)。ナポレオン一世の甥。
- 亡命生活ののち1848年の二月革命で帰国し、第二共和制大統領に当選。
- 1851年クーデターを起こし、翌年皇帝に即位。反対勢力を抑圧し、産業保護・対外進出に力を入れる。
- メキシコ遠征後、1870年普仏戦争に敗れて退位、イギリスに亡命した。
- ブリュメール18日のクーデター(1799年)で総裁政府を打倒し、統領政府を樹立したナポレオンは、自ら第一統領に就任。ナポレオンは、フランス革命時の教会財産没収などで不和となっていた教皇とコンコルダート(宗教協約)を結び国民の人気を得て、終身統領に就任(1802年)。また、イギリスともアミアンの和約を締結し対仏大同盟を解体させるなど外交でも得点を稼ぎ、1804年国民投票で世襲皇帝となり、ナポレオン1世と称してフランス第一帝政(1804-1814)を開始。
- ナポレオンは、市民革命の成果をナポレオン法典(1804年)に結実させ、大陸封鎖令(1806年)による国内産業の育成、教育制度の整備をおこなった。ナポレオンのヨーロッパ支配は大陸では順調に進展。アウステルリッツ会戦(三帝会戦)に勝利し、対仏同盟を崩壊させ、1806年には、西南ドイツの諸邦を統合して、ライン連邦を組織し保護下においた。これにより、神聖ローマ帝国は消滅。
- プロイセンとは、1807年にティルシット条約を締結し、プロイセンの領土を半分以上奪い、エルベ川以西にウェストファリア王国、ポーランドにワルシャワ大公園を建設。
- ナポレオン戦争を通じて、ヨーロッパ諸国にはフランス革命の自由・平等の精神が普及し、その結果、ナポレオンの支配を脱して国民国家をつくろうとする解放戦争(諸国民戦争)が起こった。プロイセンでは、屈辱的なティルジット条約以後シュタイン、ハルデンベルクにより国政改革が推進され、農奴解放や徴兵制度などの近代化が実施された。また、フィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」という名講演を行ってドイツ精神を鼓舞。スペインでは、ナポレオンの兄の即位と大陸封鎖令に反対して農民を主とする抵抗がおこった。イギリスの経済封鎖をねらった大陸封鎖令も、ナポレオンの意図に反し、多くの植民地をもつイギリスにはさほど効果を与えず、かえってナポレオン没落の原因となった。その典型が、ロシアの離反とモスクワ遠征の失敗である。ロシアは、自国の穀物の販路を求めて大陸封鎖令を破ったので、1812年ナポレオンはモスクワ遠征を行った。しかし、ロシア農民のゲリラ的抵抗、寒さと飢えのために失敗。モスクワ遠征の失敗を機に翌1813年、イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアらが第4回対仏大同盟を締結すると、諸国民も蜂起し、各地で解放戦争(諸国民戦争)が勃発した。
同盟軍は、ライプチヒの戦いでナポレオンを破り、1814年パリを占領。ナポレオンは退位して、地中海のエルバ島に流された。そしてルイ18世が即位して、ブルボン朝が復活。1814年5月、各国は第一次パリ条約を締結し、フランスが1792年の国境線に戻ることや、戦勝国の領土分配を決定。しかし、戦勝国間における利害の対立で未解決の案件が残されたので、ウィーン会議に案件の解決を委ねた。
- 第2次イタリア遠征
- フランス銀行設立
- コンコルグート
- 国民教育制確立
- アミアン条約締結
- ルイジアナをアメリカへ売却
- ナポレオン法典発布
- ライン連邦の創設
- 大陸封鎖令(1806年のベルリン勅令、1807年のミラノ勅令)
- ティルジット条約締結、ウェストファリア王国、ワルシャワ大公国の建設
- モスクワ遠征