feminism
18世紀から20世紀初めまで続く「女性解放運動」は、参政権や財産権などを女性も獲得しようという権利拡大運動だった。
しかし、やがてフェミニズムは、「女らしさ」という「ジェンダー」を女性に押しつける男性の視線や制度を告発する運動となる。「女は女として生まれるのではない、女になるのだ」というボーヴォワールの言葉はジェンダーのあり方を簡潔に表している。実際、「母性」や「良妻賢母」といった言い方は、資本主義社会における男の有償労働を支える女の無償労働を美化し、奨励するために流布された神話である。そこでは、男性とは異なる女性という存在を自分に都合のいいように作り替え、それに外れる者には「ヒステリー」などといった烙印を押して排除するシステム(父権制)が機能している。
男性中心のシステムを告発するため、女としてのアイデンティティ(「女性原理」)を打ち立てることによって、女たちの「連帯」を図る第二波のフェミニズムがこうして現れる。
とはいえ、女性の「本質」を拠り所に、身性でありさえすれば「連帯」が可能であるとするやり方には問題がある。一口に女と言っても、階級や教育、出身家庭、出身文化、経済的条件などによって、生きる困難は様々だからだ。
そこで1990年代以降、女性「本質主義」を批判し、「女」の質的な多様性に着目する方向へと、フェミニズムの動きは変化しつつある。
女性差別には様々な形態がある。だれの目にも見えるあからさまな社会的差別もあれば,個人の心の深層にあって本人も気付かない抑圧もある。さらには,言語や慣習に組み込まれて文化の構造と化した差別も含めると,女性差別は実に多様である。こうした多様性に応じて,これを批判するフェミニズムも,様々な理論的傾向をとることになる。
…などの潮流があるこの多様性は分裂状態というよりも,むしろフェミニズム理論のふところの探さ,その豊饒さといえよう。
東亜日報・オピニオン]第3のフェミニズム
JUNE 22, 2005
「女性学が結婚とセックスについて女子大生に間違った教えをしている」。フェミニストが驚愕してもおかしくない、こうした主張を提起したのは男性ではなく、また別のフェミニストグループだった。独立女性フォーラム(IWF)という米国の自由主義女性団体が、大学で使っている女性学の教材を分析した結果、「キャリアを持つことのみが女性の成功であり、結婚と家族を家父長的な拘束と思い込ませる」という報告書を、今年度初めにまとめたのだ。フェミニズムの多様化と言えようか。
◆フェミニズムにも流れがある。20世紀前後、西欧の女性参政権闘争が最初の流れだとすれば、1960、70年代の第2の流れは、全ての抑圧からの開放を追い求める男女平等運動に集約される。1980年代に入って、協同や直感、親密性など「女性的価値」に注目する女性学理論が脚光を浴びた。おかげで、女性の意識と地位は高くなったが、フェミニズムはやや過激になった。「ポルノは女性を服従させるための社会的兵器」というふうだった。大学で女性学を教える教授の中には、そのとき勉強した世代が少なくない。
◆「男がどうして敵なのか。女性が好むのに」と主張しながら登場したグループが1990年代の米国自由主義のフェミニストたちだ。わが国にはあまり紹介されていないが、個人の選択と責任、市場経済を重視するIWFは、既存のフェミニズムを左派的だと見ている。人が見るには彼らが右派的なのは当たり前なことだ。西欧中心を批判する見方も出た。もはや人種、国籍、階級、宗教、性的アイデンティティによって見方も多様で、政治、経済、環境、戦争、文化などの分野においても第3のフェミニズムが展開されている。