ユダヤ主義

「ユダヤ主義」についてのメモ。ユダヤ主義とは…
HOME > ユダヤ主義

Judaism

ユダヤ主義 †

 Judaismというのはふつう「ユダヤ教」と訳される。

 だが、あえて「ユダヤ主義」の訳語を与えるのならば、少し微妙になる。

 たとえば、キリスト「教」とはいうけれど、キリスト 「主義」とは言わない。二つの語の違いは、「教」は当否の判断を超越しているが、「主義」は経験のなかでその真理性をみずから検証してみせなくては立ちゆかない、という点に存する。宇宙の構造、世界の起源と終焉、被造物の召命などにかかわる「教」の対立においては、どの説教を真とするかは、権利上、誰にも決し得ない。しかし生活の現場での「あれをせよ、これをするな」の「主義」間の対立においては、すべての共同体が固有の経験的「真理」を有する以上抗争は避け難い。

 ユダヤ教はその根本教典が「殺すな、盗むな」に始まり、「聖櫃の寸法」「食餌の禁忌」「潰れた片目の賠償額査定」に至るきわめてトリヴィアルな生活規範を含んでいる。これでは非ユダヤ人社会の経験的「真理」とことごとに抵触せずにはいられない。「律法ではなく信仰によって義とされる」という普遍的教義によって土俗的「真理」との摩擦を回避しえたキリスト「教」が布教戦でユダヤ「主義」を圧倒したのは当然のことであった。

 にもかかわらずユダヤ主義はあえて「信仰だけでは足りない。人間は網羅的律法によってがんじがらめに縛り上げねばならない」と主張する。ここには人間に対する非常に厳しい見方が認められる。つまり、あるがままの、生まれたままの人間は平気で「殺し、盗み、姦淫する」から他者と共存しえない、ゆえに制度や虚構の力を借りてこれを矯正しなくてはならない、とする見方である。

 このおしつけがましさを耐え難く感じる人がいるのは当然である。それゆえユダヤ主義者は「被拘束からの自己解放、疎外からの自己奪還」を祝聖するあらゆるイデオロギーと確執をかもさざるを得ないし、またその抑圧的人間観ゆえに西欧の<超自我>=<世界支配陰謀をたくらむ老賢者>に凝されることにもなる。

 自由を守るためには自由に制限を加えねばならない、生きるためには生命力の横隘を制御しなければならない、というようなバラドクスは若者には「大人の詭弁」としか映るまい。しかしユダヤ主義の立場からすれば、それこそが人生の辛酸を砥め冬くした「成熟者の叡知」なのである。

反ユダヤ主義






2007-03-10 (土) 21:35:49 (4601d)