ワシントン体制

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ワシントン体制 †

  • 第1次世界大戦中の対中国政策

辛亥革命後,中国では大総統に就任した袁世凱の北方派に対して,孫文らの南方派が第2革命を起こして敗れるなど.両派の対立が継続。

‖2次大隈内閣
開戦時の第2次大隈内閣外相・加藤高明は,元老の影響を排除した外務省による一元外交確立を目指した。加藤外相はイギリスからの参戦要請で,即時対独参戦に踏み切った。さらに列強が撤退して弱体化した袁世凱政権に21ヵ条要求を行って中国の反日感情と列強の猜疑心を招き,山県ら元老を激怒させた。
21ヵ条要求は哀政権の国内基盤を強化し,袁世凱は皇帝就任しようとする。大隈内閣は,袁世凱に帝政延期を勧告するなどの反袁政策を推進した。しかし袁世凱の急死で情勢が急変。大隈内閣の反衷政策を批判していた朝鮮総督寺内正毅元帥が首相となった。

∋内内閣

寺内内閣の最大の外交課題は,大隈内閣が悪化させた日中関係改善だった。寺内内閣は袁死後の北方派の実力者、段祺瑞の政権を援助する西原借款を行った。また日本が中国北部に絶大な勢力を築くことを恐れるアメリカとの間に了解を取り付けるため,寺内内閣は前外相・石井菊次郎を特派大使として派遣し,石井・ランシング協定が締結された。

8尭盂
米騒動で政友会の原総裁が首相に就任すると、対中国政策も南北妥協促進へ転換が図られ,北方派援助打ち切りが閣議決定された。しかし南北和平会議が決裂して,原内閣も北京政府援助を継続せざるをえなくなった。

  • 政党内閣の成立

1917(大正6)年11日,ロシアにボルシェビキ政権が成立してドイツと休戦し,東部戦線が崩壊すると.英仏はこれを再建するため,日米にシベリア出兵を働きかけた。寺内内閣がシベリア出兵を宣言したのと前後して米価引き下げ運動が全国へ広まり,米騒動となった。寺内首相に事態を収拾する力はなく,政党嫌いの山県も折れ,原に組閣の大命が投下した。原は陸相・海相・外相以外の閣僚に政友会員をあてる,初の本格的な政党内閣を組織した。
 原首相は普通選挙運動に譲歩し,有権者資格を引き下げ,小選挙区制を導入する選挙法改正した。しかし原首相は普選運動に冷淡で,憲政会と国民党が普選法案を提出すると,これを否決したうえで解散・総選挙を行い圧勝。普選運動は沈静化した。

  • パリ講和会議

戦勝国が対ドイツ講和条約を作成するために開催したパリ講和会議で,アメリカなどで起きた日本人移民排斥問題から,日本は人種平等の条項を国際連盟規約に挿入させようとしたが容れられず,日本側の要求は議事録に載せられるにとどまった。

山東省の旧ドイツ権益問題でl巨国は,21ヵ条要求による取り決めは脅迫によるもので無効であると主張。日本は会議脱退を切り札に要求を認めさせたが,中国では反日運動(五・四運動)が起きて講和条約に調印せず,アメリカ上院が条約批准を拒否する有力な原因となった。

  • ワシントン会議

第1次世界大戦中の日本勢力伸長で極東における列強間の力の均衡が崩れ,日米対立が激化。日米英は海軍軍拡に着手したが,戦後不況で軍備制限の気運が高まった。そのためワシントン会議が開会され,米英日の主力艦総トン数比を5:5:3とする海軍軍縮条約,日英同盟にかわる日米英仏の4国条約,中国に関する9国条約が調印された。

  • 日ソ国交樹立

日本国内では,反米英=反ワシントン体制世論などを背景に,対ソ提携論が台頭した。これを推進したのが,初代満鉄総裁だった後藤新平や,「北守南進」を伝統的戦略とし,北樺太石油利権に関心を持つ海軍で,1925(大正14)年に日ソ基本条約が調印された。






2007-03-10 (土) 21:36:37 (3930d)