安土桃山時代

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あづちももやまじだい /織豊時代 しょくほうじだい

安土桃山時代 †

  • 織田信長・豊臣秀吉が政権を掌握していた時代。
  • 信長がはじめて入京した1568年(永禄11年)、または1573年(天正元年)〜秀吉の死(1598年)まで、または関ヶ原の戦いの1600年(慶長五年)までの約30年間。
  • 信長の居城安土城と秀吉の居城伏見城(桃山城とも)にちなむ名称。
  • 全国的な軍事統合が進むとともに、兵農分離、石高制が確立して、日本社会の中世から近世への移行が推進された。
  • 文化的には社寺や城郭建築、障壁画に多くの傑作を生み、茶の湯が大成された。(桃山文化

キリスト教の布教

鹿児島上陸後、ザビエルは山口で布教活動を行った。フロイス、ヴァリニァノらは、京都に上り信長の許可を得て、南蛮寺(教会)やコレジオ、セミナリヨを建設するなど布教活動に努めた。

1543年、種子島に漂流着したポルトガル人によって伝来した鉄砲は、急速に戦国大名に拡がり、近世社会への転化を促した。

織田信長は、戦国大名の中でも最も近代的で独創的な考え方の持ち主。長篠の戦いにおける鉄砲の一斉射撃戦法。
従来の閉鎖的な経済体制の象徴であった座を廃止して、商業の自由化を進めるために、楽市楽座の制をとった。
宗教政策としても、中世的権威の一つであり、かつて白河上皇をも嘆かせた延暦寺を焼き打ちすると共に、1549年鹿児島へ上陸したイエズス会の宣教師F・ザビエルが伝えた新興のキリスト教を保護するなど積極的な方策を取り続けた。

余りに過激なやり方が災いして、天下統一の半ばで本能寺の変において死亡。

信長の偉業を継いだのは、豊臣秀吉であった。秀吉の政策の多くは、信長の政策を継承したが、一層強化されていた。
太閤検地は、信長の指出方式(検地帳の提出)より厳格にする為、政府側の手で面積の測量が行われ、また貫高制から石高制に切り替えられた。

  • 刀狩り
  • 生野銀山を始めとする鉱山や堺などの貿易港の直轄。

宗教政策に関しては、信長の政策の継承にはならず、1587年に九州の博多でバテレン追放令を発布。

豊臣秀吉は、天下統一を実現したが、朝鮮出兵を契機に加藤清正に代表される武断派と石田三成に代表される文治派の対立が深まり、秀吉の死後の1600年に関ケ原の戦いがおきて、西軍の石田三成方が敗北したことにより事実上崩壊した。

  • 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1614年京都の方広寺の鐘銘事件を口実として、大坂冬の陣をおこし、翌15年の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼして、徳川幕府の政権の基礎を確固たるものにした。





2007-03-10 (土) 21:36:50 (3813d)