元禄の治といわれる綱古の後半期の施政にみられる特色の一つは、幕府が財政収入の道を年貢取り立て以外の方向にも見出し、すでに放置できなくなっていた財政困難を救うことに努力したことである。
荻原重秀の献策した貨幣政鋳もその一つ。改鋳前の慶長小判の金の含有率が84.29%であったものを、改鋳後は57.37%にしているから、その差額(出目)だけ幕府の利益となり、財政の建て直しに役立った。しかし、一方では貨幣の価値の低下がインフレをひきおこし経済界を混乱させた。
その点を新井白石は批判し、正徳の治では、金の含有率をもとに戻した正徳小判を出すことになったのであるが、品位の低い貨幣を増加させた荻原の貨幣改鋳は、元禄時代の経済の繁栄、商業の活況を考慮に入れると、それまで以上の貨幣の流通量が必要で、貨幣改鋳の成果は拡大した経済の円滑化に貢献したという側面もあった。