共有地の悲劇

「共有地の悲劇」についてのメモ。共有地の悲劇とは…
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tragedy of the commons コモンズの悲劇

共有地の悲劇 †

  • 共有地
    • 多数の主体がアクセス可能な私的財

海洋資源や公共施設、大型計算機の計算時間などの場合、各主体が自由にその財・サービスを使用したり採ったりすると、その資源が社会的に最適な水準よりも過剰に使用されることとなる。このことを生物学者のハーディン(G.Hardin)は「共有地の悲劇」と呼んだ。

ハーディン(Hardin, G.1968)によって論じられた個人の利己的な利益追求が社会的コストを発生させ,社会全体を悲劇的状況に陥れる社会的ジレンマの例。中世ヨーロッパでは,村には共同の牧草地があり,誰でも自由に自分の家畜を飼うことができた。そこで,誰もが自分の利益を求めて,自分の家畜の数を増やし続けると,やがて村全体の家畜の食べる牧草の総量が,自然が補給する牧草の量を越える。その結果,誰もが自分の家畜を失うという,悲劇的結末を迎えることになる。

噴水台】共有地の悲劇2005.08.18

雨の後、時々聞く話がある。 ある工場主が夜陰に乗じて廃水を河川に違法放流した、との内容だ。 工場主が「良心」をどこかに預けておく理由は何だろう。 工場主は汚水を浄化処理しないことで、生産コストを節減できる。 これは、個人が直接手に入れられる利益だ。半面、河川汚染による社会的費用は、彼一人で負担するものではない。 他の人々と共に一部だけを分担すればいい。 もちろん違法行為が摘発されなかった場合、という但し書きが付くものではある。 これを説明する概念に「共有地の悲劇(The Tragedy of Commons)」というものがある。 1968年、米生物学者ハーディンが米科学誌・サイエンスを通じて発表した。

漁場の例を見てみよう。 漁場を所有している村がある。 最初はみな自由に魚を捕る。 しかし、漁夫が増え、漁民の魚を釣る技術も発達し、魚族がつき始める。 このまま進めば、みながつぶれてしまう。 こうした事実を知っていながらも、全ての漁夫は必死に網で魚を捕らえる。 なぜ、そうだろうか。 捕った魚は、私一人のものだ。 しかし、魚族枯渇による被害は、村全体が受けるようになるからだ。 たとえ「意識のある」漁夫だとしても、投網を打たざるをえない。 自分が捕らなくても、他の漁夫は漁獲高を最大限に高めるため、魚を捕りつづけるだろうとの点を知っているからだ。 結局、魚の群れは消え、村が破壊されるまで乱獲は続く。 これが共有地の悲劇だ。 「公共財の悲劇」とも言える。 みなが制限なしに使えるが、誰も自発的にその財貨を供給しようとはしない。 また、供給にともなう費用を負担するとしても、恩恵に相応する費用の負担は忌避する。 国防が代表的な例だ。 国防の恩恵はすべての人に与えられる。 しかし、すべての人が国防の恩恵に相応する費用を負担したりはしない。 一銭も納めまい、とする人もいる。 その終わる所が兵役不正だ。






2008-07-24 (木) 15:23:03 (3763d)