慶長の役

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慶長の役 †

  • 豊臣秀吉が文禄の役で明と和議をしたのち、明使のもたらした表文をめぐって再び慶長二年(一五九七)正月に朝鮮に出兵した戦役。
  • 翌年秀吉の死後には撤兵した。

文禄の役

文禄・慶長の役

征明>を目的に*豊臣秀吉が起した大陸侵攻の戦争。朝鮮半島を戦場とし1592(文禄1)から98(慶長3)まで講和交渉をはさんで7年間におよぶ。朝鮮出兵とも称し,朝鮮では壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱,中国では万暦朝鮮の役と呼称。大陸侵攻の意思表示は85(天正13)頃から見られるが,肥前*名護屋城普請は91年から開始。この間秀吉は朝鮮に服属要求を行なうが,交渉にあたった対馬の宗氏などの思惑もあって,日朝間の状況認識には大きな懸隔が生じていた。
92(文禄1)3月,秀吉は16万の軍勢を9軍に編成し,朝鮮半島への渡海を命じた。4.12釜山に上陸した第1軍が示した征明の先導要求を朝鮮側が最終的に拒否して戦端が開かれた(文禄の役)。日本側の攻勢によって5月初めには都である漢城(現ソウル)が陥落。ここで秀吉は征明後の国家構想を披瀝するが,水軍が敗れ,翌年1月の平壌の戦で明軍に敗北すると日本側は劣勢となり,漢城さらに半島南岸へ撤退。
その後,日明間で講和交渉がもたれるが,和議の条件は咸鏡道で捕縛された朝鮮王子の解放,日本軍の釜山への撤退,明軍の遼東への引揚げと,その上での明から日本への講和使節派遣であった。これをうけて明軍は使節と詐称した一団を日本へ送り,秀吉は6.28彼らに<和議条件>7か条を提示。その主な内容は,明皇帝の娘を天皇妃とすること,勘合の制復活,朝鮮領土の割譲であった。一方朝鮮で*小西行長は*沈(しん)惟敬と画策し,講和をすすめるため偽作の秀吉<降表>を携えた偽の降伏使節を仕立て,北京へ派遣。この結果,明から日本へ冊封使(さくほうし)が派遣され,96(慶長1)9月秀吉は大坂城で明使に引見する。しかし,明皇帝の誥勅は秀吉を<日本国王>に封じるのみで,秀吉の提示した和議案は全く無視されており,講和は破綻。97年戦闘の再開となる(慶長の役)。翌年8月秀吉の死により日本側は撤兵を開始するが,実際の戦闘は11月まで継続した。
なお,この戦争に随伴する文化史的意義として,連行された捕虜による陶業の発達や活字・典籍の将来などがあげられる。






2007-03-10 (土) 21:39:06 (4579d)