弘安の役

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弘安の役

弘安四年(一二八一)、蒙古軍が文永の役に続き再度博多に来襲した戦役。一四万の大軍で迫ったが、日本軍の応戦と暴風のために壊滅。→文永の役

文永・弘安の役【ぶんえいこうあんのえき】
鎌倉時代の2度にわたる元軍の襲来事件。蒙古襲来,元寇とも。[文永の役]日本との通交を意図したモンゴル(後に元)皇帝*フビライは,1266年国書を草し,日本に送った。これは68(文永4)に日本に到着したが,日本側は無視。その後何度も元・高麗の使者が来日したが,日本の姿勢は変らなかった。73年に高麗で反乱を起していた三別抄が鎮圧され,翌74(文永11)元の第1次日本遠征が決行された。これが文永の役である。10月高麗の合浦(がっぽ)から3万2000余の元・高麗軍が出発し,対馬・壱岐を経て博多周辺に上陸。元軍が優勢で,日本軍は元軍の武器や戦法にとまどい,博多や筥崎(はこざき)宮は戦火で焼失した。しかし元側は自主撤退し,帰途に暴風の被害を受けた。
[建治年間の対策]文永の役で苦戦した鎌倉幕府は,1275(建治1)に九州の御家人に博多湾を定期的に警備させる*異国警固番役の制度を実施。翌76年には博多湾沿岸に石築地(いしついじ)(元寇防塁)を築造し,防備を固めた。さらに高麗を攻撃する異国征伐も計画されたが,実施されなかった。
[弘安の役]元は1279年南宋を滅亡させ,81(弘安4)第2次日本遠征を決行した。元・高麗の東路軍4万2000は5月に合浦を出発し,対馬・壱岐を襲い,博多をめざしたが,防塁と日本軍に阻まれ,上陸できなかった。一方,旧南宋軍を主体とした江南軍10万は,遅れて中国の慶元を出発し,平戸付近で東路軍と合流。7月30日,平戸から鷹島へ移動していた元軍を大暴風雨が襲い,元軍は壊滅的な打撃を被った。その後,日本軍による残敵掃討戦が展開した。2回の蒙古襲来は失敗に終ったが,元は日本遠征の意志を撤回せず,日本側は異国警固番役を廃止することはできなかった。またこの蒙古襲来は,鎌倉時代の政治・社会・文化に大きな影響を与えた。






2007-03-10 (土) 21:40:13 (5552d)