世界的スタグフレーションの進行する中で,田中角栄首相が1972(昭和47)年日本列島改造論を発表すると,地価騰貴の歪みか表面化してくる。と同時に産油国の大幅な石油価格引き上げの影響で,第一次石油危機(昭和48年)が起こった。狂乱物価,財政赤字そしてマイナス成長(昭和49年)が現出した結果,高度成長の総決算か叫ぱれ,安定成長への転換がはじまった。「経済大国」を自認し始めた日本は大きくその路線を変えざるをえなくなった。
1950年代後半以降の経済政策のことで、重化学工業の発展とそれに伴う独占の強化を基調とする。日本経済は1955年(昭和30)に戦前の水準を回復し、翌年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言したが、企業が本格的に投資活動を行うようになったのは池田勇人(はやと)内閣の「国民所得倍増計画」が発表された60年以降のことであった。 1960年代を通じ、経済成長率は年率10%台を維持し、68年にはアメリカに次ぐ自由世界第二位の国民総生産をあげるに至ったが、この発展を支えたものは世界経済の拡大と政府の経済政策であった。これは具体的には、財政投融資の拡大、工業立地条件の改変、低賃金維持、農業の「構造改善」による労働力の創出、などがあげられる。しかしこの政策は、一方で公害の多発、生活環境の破壊、農業の荒廃、過密と過疎、物価上昇などさまざまの社会問題を引き起こし、73年のオイル・ショックをきっかけとして転換を余儀なくされた。
第1位としての日本。「アメリカは現状を打ち破るために日本を見習え」という,ハーバード大学のエズラ・F.ヴォーゲル教授の同名著書(1979/TBSブリタニカ)の名から。
元駐日大使ライシャワー『ザ・ジャパニーズ』(文藝春秋)も同様よく売れた。