fallacy of composition
(中央日報・噴水台)
「あらゆる物体は原子で構成されている。 原子は目で見ることができない。 したがってあらゆる物体は目で見ることができない」。何の瑕疵(かし)もない3段論法だ。 しかし結論は間違っている。 部分の属性がそのまま全体の属性と、または部分が正しければ全体も正しいと主張するところから生じる合成の誤謬(fallacy of composition)だ。 「私が劇場の座席の上に立って見れば、公演がもっとよく見える。 したがって観客全員が座席に上がれば、みんな公演をよく見ることができる」という論理も、合成の誤謬の例として頻繁に登場する。
経済学では合成の誤謬を、ミクロ経済(microeconomics)とマクロ経済(macroeconomics)の差で説明する。 例えば個人が良い生活をするためには貯蓄が非常に重要となる。 だからといって全員が貯蓄だけをしてお金を使わなければ、不況が訪れるはずだ。 また各企業は、景気沈滞期には生き残りのため従業員を解雇し、生産を減らす構造調整に取り組むのが適切な対応だ。 では国家も企業と同じように、景気沈滞期に構造調整を行うのが正しいのか。 結果は不況の深刻化という災難を招くことになる。 家計・企業など個別経済主体が国家経済の部分であり、これらの和が国家経済であるが、個別経済主体にとって正しいことが、国家経済にも有益だとは限らないということだ。 マクロ経済は家計・企業の単なる和ではなく、有機的な総合であるからだ。 体全体の調和を考慮せず各部分に良いという処方を下すと、むしろ体を壊すのと同じ理屈だ。
今年1年はとりわけ混乱していたと言う人が多い。 景気は通貨危機直後よりも悪いという嘆きがあちこちで聞かれ、政界は一寸先も分からない程こじれている。 その渦中、各集団の声はいつよりも大きい。 それぞれ一理ある主張だ。 このため国家が推進する事業が円滑に進行することはほとんどない。 政府が各集団の主張にいちいち対応してきたせいでもある。 経済学は、国家レベルのマクロ経済では、ミクロ経済と異なる原則とルールが適用されてこそ、合成の誤謬を避けられる、と教えている。 いま政府は、国家レベルの原則とルールを持っているのだろうか。
(中央日報・噴水台 2005.08.08)
日本は1998年、国民1人当たり3万〜10万円の商品券を配った。 6カ月以内に本人が直接使わなければ無効という条件を付けた。 すぐに消費しろということだ。 日本は35兆ウォン(約3兆5000億円)の税金を減らしながらも、いちいち現物で支給した。 オンライン通帳に減税分を振り込むと、消費どころか、そのまま貯蓄だけが増えるという経験があったからだ。
日本は長期不況の脱出口に消費を考えた。しかし日本人はお金ができれば銀行に駆けつけた。深刻な不況のため、老後の心配が先立った。ヘリコプターで現金をばら撒いたり、月曜日を公休日にしてショッピングの日にしようという案が真剣に検討された。 預金を防ぐために金利を0%に下げたが、百薬が無効だった。 人々はもっと必死になって貯蓄を増やした。 「失われた10年」は「失われた20年」に向かって突き進んだ。
韓国は10月になると「貯蓄の日」の行事でにぎわう。 各学校で白日場(ベギルジャン、詩文の競作)が開かれ、小さなお金から大きなお金を作った人は表彰を受けた。 しかし昨年、韓国銀行(韓銀)は「貯蓄の日」の報道資料を配らなかった。 各銀行は最近、学校の貯蓄をなくそうと注力している。 金利も低く、わずかな預金を受けたところで人件費にもならないのが現実だ。
30%台半ばだった国内総貯蓄率が昨年27%まで落ちても、憂慮する声はどこにもない。 政府は時々刻々、デパートの売り上げをチェックしながら、減少していないがびくびくしている。 「貯蓄は美徳」という雰囲気は知らぬ間に消えてしまった。 一時とんでもなかった「消費が美徳」という主張には、もはや違和感がない。
70年前、米国経済学者ケインズは「節約の逆説」を発表した。 個人で見ると節約と貯蓄は合理的だが、社会全体で見るとむしろ所得減少と不況を招きうるという理論だ。 貯蓄が増えれば需要が減り、その結果、供給が減少すれば失業が増え、不況に陥るという学説だ。
最近ある経済研究所が、韓国経済も節約の逆説に陥ったと警告した。 お金を借りて投資すべき企業までが貯蓄に加勢しているため、消費と生産が振るわないという指摘だ。 他国が先進国入りからずっと後に体験した節約の逆説を、われわれは一歩先に経験するということだ。 こういうことまで先進化と呼ぶべきか、早老現象とみるべきか。