足利時代
こうして成立した建武の新政政権は、後醍醐天皇を頂点とする天皇親政体制を建前としており、記録所を設置し、雑訴決断所を中心にして政治の運営にあたった。この政権は、公武併用を基本としながら、「二条河原落書」で風刺された如く実際には、公家を主軸とする傾向が強く、武家の不満がつのり足利尊氏(高氏から改名)を擁立して離反するようになった。持明院統の光明天皇(北朝)を擁立した尊氏が、建武式目を発して、武家政権樹立を宣言し、光明天皇から征夷大将軍に任ぜられたことにより足利幕府が成立し、吉野に逃れた大覚寺統の後醍醐天皇の政権(南朝)と対立することになった。以後、義満によって合一されるまで、南北朝の動乱が続いた。
足和義満は、京都の室町に花の御所を造営し、将軍職を義特に譲った後も太政大臣となり政務をみた。また、明の皇帝から日本国王に封ぜられるかたちで、朝貢貿易の勘合貿易を開始した。義満の時代に、幕府の組織、経済基礎が整備され、足利幕府(義満以後御所の場所にちなんで室町幕府と称された)は全盛期を迎える。
南北朝合一
3代足利義満の時に両統迭立などを条件に和議が成立し、北朝の後小松天皇が、南朝の後亀山天皇から三種の神器を継承する形で両朝を合一した。
●室町幕府の中央機構
土一揆