宗教改革

「宗教改革」についてのメモ。宗教改革とは…
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宗教改革 †

  1. 教団や信仰共同体の教義・組織を改革したり、その本源に復帰することによって再形成を図ろうとしたりすること。
  2. 16世紀のヨーロッパで展開された一連のキリスト教改革運動。
    • 1517年ドイツのルターが「九五か条の意見書」を発表し、信仰のよりどころを聖書にのみ求めてローマ教皇レオ10世の免罪符販売と教会の腐敗とを攻撃したことに始まり、16世紀の西ヨーロッパに展開された宗教運動。
  • 人は信仰によってのみ救われ、聖書のみが神の国を示すと主張して、制度・教理の両面からローマ教皇の権威を否定し、ローマ-カトリック教会(旧教)から分離してプロテスタント教会(新教)を設立。
  • 各都市に多くの宗教改革者が輩出、近世の社会変動と呼応して、近代ヨーロッパ社会の成立の画期となった。

 キリスト教に支配された中世世界から人間の解放をめざそうとした「ルネサンス」がイタリアで華開いていた頃、ドイツでは、キリスト教をキリストの教え本来の姿に戻そうとする「宗教改革」がおこる。10世紀以降ヨーロッパ各地では、イギリスのウィクリフ、ボヘミアのフスなどがカトリック教会を批判し、キリスト教再生を目指す異端運動をおこしていたし、ネーデルランドのエラスムスなどの人文主義者も教会の腐敗を批判。

しかし、教皇を頂点とするカトリックのヒエラルキーの権威は損なわれたわけではなく、腐敗行為も引き続いて行われていた。大空位時代や金印勅書の成立で領邦体制が強化され、ローマ教皇の強烈な支持者のカール5世の支配下にあったドイツは、教皇庁の経済的搾取の対象とされ「ローマの牝牛」と呼ばれた。そうした状況下において、サン=ピエトロ大聖堂の改築資金の捻出を企てた教皇レオ10世の命令でマインツ大司教が免罪符を発行すると、ヴィッテンベルグ大学教授ルターは「95ヵ条の論題」を発表し(1517年)、魂の救済は善行や儀式によるのではなく、悔い改めと福音の信仰によってのみ得られると主張。このようなルターの主張は、純粋に神学上の論議にとどまり、教皇や教会の権威を否定するものではなかったが、ライプチヒでの教皇側との論争を経て態度を硬化させたルターは、教皇権や教会制度を否定し、聖書中心主義を主張。

ルターは『キリスト者の自由』を著して自説を展開
活版印刷を通してまたたくまに社会の各層に普及し、特に教会に不満をもつ諸侯と封建制に苦しめられていた農民に支持された。事態を重視した教皇レオ10世はルターを破門し、神聖ローマ皇帝カール5世もウォルムス帝国議会でルターを法律の保護外に置いたが、ルターは反皇帝派のザクセン侯にかくまわれ、聖書のドイツ語駅を完成。

  • 宗教改革の拡大につれて、フッテンらに率いられた帝国騎士の乱や、再洗礼派のT=ミュンツアーに指導されたドイツ農民戦争が勃発。しかし、教会だけでなく諸侯の圧政も恨んでいた農民は、ルターを支持する諸侯の領地でも封建的農奴制撤廃を主張して暴動をおこしたため、社会的変革を嫌ったルターは、農民を裏切って農民弾圧を諸侯に示唆。

結果、農民暴動は鎮圧され、以後ルターの説は西南ドイツの農民の支持を失い、主として北ドイツを中心に諸侯、自由都市、富裕農民の間に普及。

スレイマン大帝に率いられたオスマン=トルコのウィーン包囲に苦しんだカール5世は、ルター派諸侯の協力を得る為に第一次シュパイエル帝国議会でルター派を黙認したが、戦局が好転すると第二次シュパイエル帝国議会でルター派を再禁止した。ルター派がこれに抗議(プロテスト)したことが、プロテスタントの呼称の由来。この後シュマルカルデン同盟を結んだルター派と皇帝派の抗争が続いたが、1555年のアウグスブルグの和議で諸侯と自由市は信仰の選択権が認められ、旧教、新教のどちらを選んでもよいことになった。キリスト教世界に初めてカトリック教会以外の教会が公認されたという意味で画期的なことではあったが、カルバン派が除外されていたことと個人の信仰の自由が欠如していたため、後の三十年戦争の遠因となり、ドイツの荒廃をもたらした。

宗教改革はドイツ以外でもおきていた。カルバンは、フランスに生まれたが弾圧され、スイスのジュネーブに逃れて宗教改革を指導。著「キリスト教綱要」はこの地で書かれた。魂の救済に関しては神によって予め定められているとするカルバンの「予定説」は、自己の職業を神より与えられた天職として禁欲的に勤労すべしという職業倫理を生み出し、結果として営利や蓄財を容認。そのため、カルバンの教説は当時台頭しつつあった新興市民階級に支持され、精神的支柱となった。
フランスでは、カルバン派信徒はユグノーと呼ばれ、1598年のナントの勅令で信仰の自由を認められたが、1685年に再び廃止されると激しい弾圧を受けた。熱心なカトリック国イスパニアの植民地のネーデルランドでは、ゴイセンと軽蔑されたカルバン派の運動はオランダの独立となって現れた。イギリスでは、ヘンリー8世が、自身の離婚問題から首長令を発布してカトリックから離脱したことを発端とし、エリザベス1世の統一令発布でイギリス国教会が確立したが、教会組織や教義上の改革が不徹底であったことからカルバンの教えをついで教会改革をさらに徹底しようとする人々があらわれた。
かれらはピューリタンと呼ばれ、後に革命をおこすことになる。

  • 宗教改革の先駆者
    • ウィクリフ(イギリス)
      • 聖書の英訳。聖書至上主義。コンスタンツ公会議で異端とされた
    • フス(ボヘミア)
      • コンスタンツ公会議で焚刑
    • エラスムス(オランダ)
      • 『愚神礼讃』を著し、教会を批判
  • 宗教改革の背景
    1. カトリック教会腐敗と世俗化
    2. ルネサンスによる個人の自覚と人文主義者の批判
    3. 中央集権化による国家意識の成長
  • カルバン派の呼称
    • ピューリタン(イギリス)
    • ユグノー(フランス)
    • ゴイセン(オランダ)
    • プレスヴィテリアン(スコットランド)
  • 反宗教改革
    • カトリック側は、新教側の宗教改革に対抗して、トリエントの公会議を開催し、またイグナティウス=ロヨラらがイエズス会を結成して全世界へ布教に乗り出した。1549年のフランシスコ-ザビエルの日本布教もその一環であった。





2007-03-10 (土) 21:42:28 (3932d)