植民地

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植民地 †

(3)ヨーロッパ勢力の進出 インドと中国

16世紀以降、ヨーロッパ諸国は貿易市場を求めてアジア進出を開始した。産業革命以前は、商品買付市場の貿易拠点獲得を目的としていた。しかし産業革命以後になると、本国製品の販売市場開拓、原料生産地化の推進に重点が移されていった。

インドでは、イギリスがクライブの指揮の下、プラッシーの戦いで、フランス・ベンガル土侯連合軍を撃破し、次第に勢力を拡大していった。東インド会社は、マイソール戦争で南インドを併合、マラータ戦争で中部インドを、シーク戦争でパンジャーブ地方を獲得した。こうして、ムガル帝国は有名無実化し、インドの統治は事実上乗インド会社が掌握するようになった。

東インド会社は、中国から綿や茶を買いつける代金として、インドにアヘン栽培を強制し、これを中国に売りつけた。インドは原料供給地に転落し、綿花、アヘン、藍、茶などの輸出用作物の強制栽培を余儀なくされた。こうしてインド各層の反英感情が高まる中、1857年にインド傭兵(セポイ)の待遇問題を契機にセポイの反乱がおこリ、インド全域に波及していった。この間に、イギリスはムガル皇帝を廃してムガル帝国を滅ぼし、東インド会社も廃止して、インドをイギリスの直接統治領とした。1877年インド帝国を成立させヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任することで、名実ともにインドの植民地化を完成させた。

18世紀後半の中国は、乾隆帝の下で広州1港のみを開港し、公行だけに貿易許可という貿易制限策が実施されており、イギリスはマカートニーを派遣して自由貿易を求めたが、拒否されるなど貿易を巡って対立。また、イギリスは、18世紀末まで中国の茶、絹、陶磁器を買いつけ、銀で支払っていたが、19世紀になると、茶の輸入が急増し銀が中国に流出した為、インド産のアヘンを中国へ輸出するという三角貿易を開始した。1834年、東インド会社の中国貿易独占権が廃止されて自由貿易政策がとられるとアヘン貿易が増え、中国から銀が流出するようになり、は、アヘンの輸入を禁止する。これを口実として、イギリスはアヘン戦争をおこし、1842年の南京条約で香港を割譲させ、公行の廃止や広州、上海など五港の開港に成功する。これをみたアメリカとフランスも開国をせまり、望廈条約、黄埔条約を締結させた。

こうして中国が半植民地化していく中で、太平天国の乱勃発。キリスト教の影響を受け上帝会を組織した洪秀全が、広西省で挙兵し、「滅満興漢」を掲げ、土地の均分、男女平等、租税軽減を訴え、南京を占顕した大反乱であった。この反乱に対して、清の正規軍たる八旗は役にたたず、曾国藩や李鴻章らが率いた郷勇の活躍や、ウォード、ゴードンが組織した常勝軍などの助けで
ようやく鎮圧することに成功した。この結果、曾国藩や李鴻章ら漢人官僚が台頭し、同治帝の下で中体西用論を核とした富国強兵運動の「洋務運動」が推進され(同治中興)清朝の延命に成功。

太平天国の乱の最中に、アロー号事件が起きた。イギリスは、この事件を利用して、広西省でのフランス人宣教師殺人事件で態度を硬化させていたフランスと共同出兵する。清は、屈伏して天津条約を締結するが、批准書交換の過程で再び武力衝突となり、ロシアの調停で北京条約を締結することとなった。この条約で、天津の開港、九竜半島の割譲などが決められ、関税付きアヘン輸入も認めさせられるなど、中国の半植民地化の傾向が一層顕著となったのである。






2007-03-10 (土) 21:43:02 (3700d)