辛亥革命

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民国革命

辛亥革命 †

  • 1911年辛亥の年、清朝を倒し中華民国を樹立したブルジョア民主主義革命。
  • 10月10日の武昌蜂起をきっかけに各地で革命派が蜂起、翌1912年1月、南京に孫文を大総統とする臨時政府を樹立、2月の清帝退位によって中国史上初の共和国である中華民国が成立した。
  • しかし、革命勢力が弱体であったため、この革命は社会変革を伴わず、保守派との妥協を強いられ、間もなく北洋軍閥の袁世凱が大総統に就任した。

列強による中国分割に直面して康有為ら革新官僚は、日本の明治維新をモデルとした立憲君主政を樹立し、欧米の文化や制度を導入して富国強兵を図るべきだと主張(変法自強運動)。康有為ら革新官僚は、徳宗光緒帝を動かして政治改革を断行。しかし、改革に反対する保守派は、西太后を擁してこれを弾圧したので、新政は失敗した。戊戌の政変。改革がわずか3カ月で挫折したので百日維新ともいわれる。以後、清朝の実権は保守派に握られて次第に排外主義の傾向が強まり、清は政治改革と近代化の機会を失った。

  • アロー戦争北京条約以後清国内でキリスト教の布教が進むにつれ、キリスト教排斥の仇教運動が続発し、列強への反発も加わって、次第に民衆の排外感情が高まった。こうした排外感情は中国各地に広まり、1899年に白蓮教徒の秘密結社が「扶清滅洋」を叫んで山東省で武装蜂起。義和団の乱(北清事変)。
    清朝は排外政策に利用してこれを支援したが、列強は共同出兵して北京を占領。清朝は、北京議定書(辛丑和約)を結ばされ、中国の植民地化は決定的となった。
  • 義和団の乱後、清朝は科挙の廃止、新軍の新設などを進めたが、これは清朝の延命策に過ぎず、すでに民心は離反していた。義和団の乱が民族運動の性格をもち、中国民衆の抵抗エネルギーを示すものであったように、民衆の中から特に華僑、留学生の中からは「排満興漢」の革命運動がおこり始めていた。指導者の一人である孫文は、日清戦争の頃ハワイで興中会を組織。さらに日露戦争後亡命先の東京で華興会、光復会などの革命団体を結集して中国革命同盟会を組織した。この時孫文は、三民主義とそれを基調とする四大綱領を発表し、革命運動を前進させた。

清朝は、孫文らの革命運動に対処するため、憲法大綱を発表し国会の開設を公約し、責任内閣制を施行したが、革命への動きをとめることはできなかった。賠償金の支払いや改革の為に財政難に陥っていた清朝政府は、その財政危機を打開する為、1911年外国資本の援助による鉄道の国有化案を発表すると、四川省をはじめ各地で反対運動がおこり、四川暴動が勃発した。この暴動の鎮圧に派遣された新軍が武昌で蜂起した。辛亥革命の発端となった。革命はたちまち各地に波及した。1912年1月1日、革命勢力は南京で中華民国の成立を宣言し、孫文を臨時大総統に選出し、共和政国家を建設した。これが第一革命である。

清朝は、軍閥の袁世凱を総理大臣に任命し事態解決にあたらせたが、袁世凱は清朝を見限り、革命派と交渉して宣統帝の退位を条件に自ら臨時大総統になる取決めを結んだ。1912年宜統帝は退位し、中国最後の王朝清は滅亡した。

孫文は中華民国成立後括成していた国民党を基盤に袁世凱の独裁を阻止しようとしたが、逆に袁世凱によって武力弾圧を受けた。袁世凱は1913年正式に大総統に就任し、帝政復活を画策したが、内外の反対で即位を断念し、1916年病死。袁世凱の死後も革命勢力は弱体で、帝国主義列強と結ぶ軍閥が各地に割拠し互いに抗争を続けた。






2008-06-24 (火) 06:41:23 (4187d)