1881年(明治14年)には、国会開設の勅諭が出される。そこで同年、板垣らが自由党を、翌年に大隈重信らが立憲改進党を結成した。自由党は地方農村を基盤とし、士族・豪農商層を中心としていたが、次第に貧困層に広がり、急進的な性格をおびていく。
改進党は、有産者層、知識層を基盤とし、漸進的だった。政府も福地源一郎らに立憲帝政党という御用政党を結成させている。自由、改進両党は数年で解党同然となったが、自由党は後の政友会に、改進党は民政党へと引き継がれた。
明治政府は、1885年(明治18年)の内閣制度創設、89年(明治22年)の憲法発布、1890年(明治23年)の帝国議会開会と、次第に政治制度を整えていく。
明治憲法は、天皇の下での立憲君主制をとったが、実際には天皇の役割は限定されていた。
現実には天皇は、藩閥支配に正当性を付与するだけの名目的権威にとどまっていたので、現実政治は、藩閥政府と反藩閥勢力の間の衝突と妥協を軸として繰り広げられた。
「超然内閣」対「政党内閣」
藩閥政府は、このような方針の下、政党勢力の伸長を抑制し、政党内閣も認めない。しかし、それにもかかわらず政党は、衆議院で次第に勢力を伸ばしていった。
帝国議会は、制度上は「協賛」機関でしかなく、法律案も議会を通過しただけでは法律となるわけでなく、首相が天皇に裁可するよう「上奏(じょうそう)」(意見を申し述べ)し、天皇が「裁可(さいか)」(許可)してはじめて法律となるとされた。このように、首相が法案を握りつぶせば葬れるし、天皇もいやなら認めないでボツにできる制度だった。しかし、実際にはそのまま決まるのが慣例になっていた。そういうわけで、政党が勢力を増してくると、藩閥政府も対応に苦慮させられることとなった。
はじめ超然主義の立場をとっていた伊藤博文も、政党勢力との妥協・提携の道を探るようになった(政界縦断)。
1900年(明治33年)、政友会を結成。次いで1913年(大正2年)に大正政変が起きると、反政友会勢力は立憲同志会を結成し、ここに二大政党による政党政治の
構図が整っていた。同志会は、後の憲政会−民政党という系譜につらなる勢力で、これが政友会と対抗し、交互に政権を担当するという「憲政常道」の時代に発展していく。