政党内閣

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政党内閣 †

  • 原と山県の死

1921(大正10)年11月,政友会総裁の首相原敬が暗殺され,翌年2月には,藩閥系の最大勢力を率いる元老山県有朋が没した。原首相の後任には,政友会の後継総裁高橋是清が就任したが、政友会の内紛で総辞職した。元老は21ヵ条要求時の外相だった憲政会総裁・加藤高明を嫌っており,後継首班に海相加藤友三郎を推し,加藤首相が没すると,海軍・薩派長老の山本権兵衛大将が後任となった。政友会では,元老西園寺が高橋総裁を見切り,政権が来ないのではないかという悲観論から内紛が深刻化した。

  • 第2次憲政擁護運動

摂政狙撃事件で第2次山本内閣が総辞職すると,元老は枢密院議長清浦奎吾に組閣の大命を降下させた。政友会からは反高橋総裁派が脱党,政友本党を結成して衆議院第1党となり,清浦内閣与党となった。政友会・憲政会・革新倶楽部は護憲三派を結成して対抗し,政党内閣確立を目指す第2次憲政擁護運動を開始した。この情況に清浦内閣は衆議院を解散。総選挙で護憲三派が勝ち、憲政会が第1党になると,西園寺も加藤高明を首相に奏薦した。この護憲三派内閣は男子普通選挙法を成立させた。

  • 政党内閣の内政

仝杵契庄犹と憲政の常道
ただ1人の元老西園寺は,首相の病死や遭難で内閣が総辞職した時には同じ政党の後継総裁を,政策的な問題で総辞職した時には野党第1党の総裁を奏薦するという慣例を積み重ねた。そして政権政党が交替すると,新内閣は解散・総選挙を行い,与党が第1党となった。そのため桂園時代の原内相下に始まった内務省・府県庁の政党化が最高潮に達した。

金融恐慌
第1次世界大戦後にヨーロッパ経済が復興すると日本は輸出市場を失い,関東大震災で大打撃を受けた。第1次若槻礼次郎内閣はいわゆる「震災手形」処理2法案を議会に提出したが,審議中に金融恐慌となり,台湾銀行も休業に追い込まれた。若槻内閣は緊急勅令で台湾銀行を救済しようとしたが,「幣原外交」に批判的な枢密院に否決され総辞職。

0羮綺眄と高橋財政

第1次世界大戦後,主要国が次々と金本位制に復帰する中,日本は先延ばしにしたので,国際的な通貨枠組みから取り残された。これに取り組んだのが民政党・浜口雄幸内閣の蔵相井上準之助で,金本位制復帰のためデフレ政策を採り,金解禁を行ったが,すでに世界恐慌が始まっており不況を深刻化させた。

満州事変の最中に成立した政友会犬養内閣の蔵相・高橋是清は金本位制を停止。赤字国債の日銀引き受けなどによるインフレ政策で景気を刺激し,日本は列強の中でいち早く不況から脱出した。

  • 政党内閣の外交

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護憲三派,憲政会,民政党内閣の外相幣原喜重郎による「幣原外交」の特色は,国際協調主義.経済外交中心主義,中国の内政不干渉の3本柱とされる。しかしアメリカの排日移民法や蒋介石の北伐に強硬姿勢をとらない幣原外交は,世論の強い非難を浴びた。

陸軍から政友会総裁に転じた首相田中義一は外相を兼ね,蒋介石の北伐に際し3回の山東出兵を行い,外務省・陸海軍の出先機関と本国政府関係者による東方会議を開催した。田中首相は,関東軍高級参謀らが張作霖を爆殺した満州某重大事件で退陣した。

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ワシントン海軍軍縮条約後、建艦競争は補助艦で激化し,日米英3国はジュネーブ軍縮会議を開いたが,米英の対立で失敗した。しかし世界恐慌は軍縮気運を盛り上げ,ロンドン海軍軍縮会議が開催された。浜口内閣は,海軍軍令部長の反対を押し切ってアメリカに妥協し,3回が条約に調印した。野党政友会や海軍強硬派は,政府が軍令部長の反対を無視して妥協案受諾を決定したのは統帥権干犯であると浜口内閣を攻撃した。条約は批准されたが,浜口首相は統帥権干犯を埋由に狙撃された。

  • 政党の凋落

(1)満州事変

1931(昭和6)牛9月18日夜,関東軍が柳条湖で満鉄線路を爆破(柳条湖事件)。中国側の仕業として軍事行動を開始した。若槻内閣は不拡大方針を決定したが,関東軍は無視して占領地域を拡大し,目標を満蒙占領から満蒙独立に切り替えた。若槻内閣は,政友会との協力内閣構想をめぐる閣内不統一で総辞職し、親陸軍的な政友会単独の犬養内閣が成立した。

(2)五・一五事件
三井と関係が深い政友会内閣の金本位制停正で,三井が大きな利益を得た。これは強い反財閥感情を生み,血盟団が井上前蔵相と三井合名理事長・団琢磨を暗殺(血盟団事件)。続いて1932(昭利7)年5月15日、血盟団と連携した海軍の青年将校が犬養首相を射殺した。元老・西園寺は海軍大将・斎藤実を後継首班に秦薦し,政党内閣期は終焉した。

(3)挙国一致内閣

五・一五事件の後,斎藤実,岡田啓介と,海軍大将の首相が2代続いた。彼らは親陸軍的な政友会より穏健で,国際連盟は脱退したものの,塘沽停戦協定で満州事変に終止符を打ち,経済危機は高橋財政で克服され,政党内閣時代を崩壊させた危機的状況は緩和さた。しかし陸軍内部で激しい派閥抗争が進行。

(4)二・二六事件

当時陸軍では,統制派と皇道派が激しく対立。統制派は,皇道派から、財閥などの現状維持的勢力と結んでいるとみられていた。皇道派は,相次ぐ左遷人事などにより統制派に敗退しつつあり,皇道派青年将校らが1936(昭和11)年,二・二六事件を起こした。岡田首相は人違いで難を逃れたが,前首相の斎藤内大臣,高橋蔵相,教育総監渡辺錠太郎大将が殺害され,侍従長の海軍大将・鈴木貫太郎が重傷を負った。事件後,統制派は,粛軍を名目とする軍部大臣現役武官制復活など,政治的発言力を強めた。






2007-03-10 (土) 21:43:53 (3879d)