9世紀の前半になると、政界で藤原北家の勢力が強まった。藤原北家は、藤原冬嗣の時に、嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭に就任以後、皇室と姻戚関係を結ぶ外戚政策を積極的にとり、その子・藤原良房は、清和天皇の外祖父として、臣下で初めて摂政の地位につき、良房の養子の藤原基経は光孝天皇の時に関白となった。このような藤原氏の政界進出は、他氏の排斥によってもたらされた。
安和の変以後、藤原北家は、摂関常置体制を確立し、摂政、関白の地位を独占したが、その最盛期は藤原道長と藤原頼通の時。政治の中心は摂関家の私的家政機関の「政所」に移り、官吏は摂関家への奉仕にのみ熱心となった。
この時代には、成功(じょうごう、官職に任命されること)、重任(ちょうにん、任期延長)などが盛んになり、収入の多い国司の地位は売官の対象となった。彼らは、任国に赴かず国司の収入を得る場合(遙任:ようにん、という)が多かった。任国に赴任した国司は受領と呼ばれ、私腹を肥やす者が多かった。中には土着して武士団の棟梁に成長するものもあった。
後三条天皇は、藤原氏と外戚関係がなかったので藤原摂関家の抑制に努め、延久の荘園整理令を発して記録荘園券契所を設置し、藤原氏の経済基盤を崩すことに着手。
後三条の死後、その意志を継いだ白河天皇は上皇となり院政を開始した。院政は政治の実権が天皇の母方の摂関から父方の上皇に移ったにすぎないが、その政治は一層私的専制的な性格になった。院は最大の荘園領主となり、受領の支持を受けて、白河・鳥羽・後白河の3上皇の時に全盛をむかえた。
12世紀になると、皇室や摂関家の内部で皇位継承争い、権勢争いがおこり、保元の乱がおこった。
保元の乱で台頭した平清盛と源義朝の対立に院の近臣の対立が加わって平治の乱がおき、これに勝利した平清盛によって日本初の武士政権の平氏政権が成立する。