経済の民主化と復興
1945(昭和20)年8月のポツダム宣言受諾後,GHQの占領政策が始まった。その経済政策は次の三つを柱とする。
戦後の経済情勢は深刻で,国民は失業,インフレ,生産減退,食糧不足等に悩まされた。 1947(昭和22)年,政府は傾斜生産方式を採用して,資材と資金を鉄鋼・肥料・石炭産業に集中し,それらの生産の伸びにより,経済にはずみをつけようとする政策をとった。新たに設立した復興金融公庫の融資や補助金の交付もそれらの産業に重点的に行なわれた。しかしその結果,インフレを助長することになった。
戦後,米ソの対立が増す冷戦体制下で,アメリカは日本に経済的自立を求めてきた。 GHQは吉田茂内閣に対し,均衡予算,物価統制などの経済安定九原則の実行(昭和23年)を指令した。翌24年に来日したデトロイト銀行頭取ドッジは,日本再建のための三提案,いわゆるドッジ・ラインを示した。その内容は次の通りである。
これらの方策は,インフレを抑制すると共に,日本経済を国際経済と結びつける役割を演じた。その結果,1949(昭和24)年4月、1ドル=360円の単一為替レートが設定された(昭和22年8月よりすでに貿易は再開されていたが,商品毎に異なる複数為替レートが使われていた)。
特需景気・所得倍増計画
1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争は,日本に特需景気をもたらした。政府はこれを機に四大重点産業(電力・鉄鋼・海運・石炭)に投資を行ない,資本蓄積を積極的に進めようとした。同時に新産業(自動車・化学製品)に封する技術導入と保護に力を入れた。こうして作り出した資本蓄積をバネとして,重化学工業を中心とする設備投資の時代を迎えるのであご,景気も1956(昭和31)年にぱ“神式景気”を経験し,家庭電化製品(三種の神器=冷蔵庫,テレビ,洗たく機)が目覚ましい売れ行きを
みせ始めた。1958(昭和33)年は,輸入が増大して鍋底不況ともいわれたが,間もなくこれを脱し,1960〜61(昭和35〜36)年のエネルギー革命(石炭から石油へ=石炭の斜陽化)を契機に,日本経済ぱ「岩戸景気」とよばれる好況に見舞われた。時の首相池田勇人は所得倍増計画を発表し,日本人に経済再建への手応えを感じさせた。投資が投資をよび(呼び水政策),労働力過剰は不足に転じ,労働力節約型技術が普及した。他面,
日本経済のいわゆる二重構造によるさまざまな格差や物価問題が,大きな課題として浮上してきた。また,このとき軍備を最小限度にとどめ,資金を経済にまわすという形が定着し,「強兵なき富国の時代」(中村隆英の命名)が到来した。