総力戦体制

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総力戦体制 †

  • 日中戦争
    • 1937(昭利12)年7月7日,盧溝橋付近で夜間演習中の日本の天津軍部隊と中国軍暫備隊の衝突事件が起き,日中戦争の発端となった(盧溝橋事件)。日本軍は無計画に戦線を拡大し,国力が疲弊した。近衛内閣は、広汎な統制を勅令で実施可能にする国家総動員法を成立させたが,近衛文麿は行き詰まり退陣した。しかし第2次世界大戦の西部戦線におけるドイツ軍の勝利で現状革新派が近衛擁立に動き始めた。その一連の動きを近衛新体制運動と呼ぶ。その到達点が大政翼賛会結成だったが,現状維持派からの攻撃に近衛は会の発足当時から腰が引けており,運動としては失敗した。
  • 太平洋戦争

ドイツ軍がヨーロッパ西部戦線で一気に勝利を収めると,日本では宗主国がドイツに敗れた仏印や蘭印への南進論が高まって対独提携論が再び台頭した。そして日独伊ソ4回協商でアメリカを牽制しようという第2次近衛内閣外相松岡洋右の構想下に日独伊3国同盟と日ソ中立条約を締結。

1941(昭利16)年6月の独ソ開戦で,南進論の前提である4回協商構想は破綻した。しかし日本は武力南進の基地として南部仏印へ進駐。アメリカは対日石油全面禁輸の強硬措置に出た。日米交渉は行き詰まり,日本軍は12月8日にハワイのアメリカ太平洋艦隊基地などを奇襲攻撃した。当初、日本は成功を収めたものの,1943年には形勢が逆転し,1945(昭和20)年8月、広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦によりポツダム宣言を受諾。






2009-10-24 (土) 08:56:28 (2798d)