対外関係

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江戸時代の対外関係 †

江戸時代初期 †

  • 17世紀に入ると、ポルトガル、イスパニアにかわって、イギリス、オランダが優勢となり、1600年のイギリス、1602年のオランダの東インド会社の設立とともに東洋進出を開始。
  • 家康は、豊後に漂着したオランダ船リーフデ号のイギリス人ウィリアム・アダムズとオランダ人ヤン・ヨーステンを外交顧問とし、その仲介によって平戸の商館を中心にイギリス、オランダとの貿易が開始された。
  • ポルトガル
    • イギリス・オランダの進出で圧迫を受け、1604年の幕府の貿易独占策の糸割符制度の適用で徹底的に打撃を受けた。
  • スペインとの関係
    • 伊達政宗による支倉常長の西欧派遣があるが、結果的には失敗。
  • 朝鮮との関係
    • 家康の時代に修復が図られ、朝鮮通信使の来日が定められた。
  • 豊臣秀吉によって始められた朱印船貿易は、徳川幕府にも受け継がれた。主な船主は、西国の大名の他、京都の角倉了以、茶屋四郎次郎などの大商人である。朱印船貿易の発展の結果、日本の移民も増加して、東南アジアには、日本町ができた。

徳川家康は、貿易奨励のために、キリスト教に寛大な方法をとっていたが、キリスト教の人類平等を始めとした教義は、封建道徳と相いれないものであり、植民地化への懸念もあって幕藩体制を揺るがす危険があった。2代徳川秀忠の時に、直轄領の天領に禁教令が出され、1614年に高山右近ら300余人をマニラとマカオに追放するなど、宣教師やキリスト教信者の処刑・国外追放を実施し、やがて鎖国を行うなど信者の迫害に乗り出した。

外国との貿易は、一方で西南の有力大名を富強化させるものであったので、貿易を統制する方向に政策転換を図った。まず、明船以外のヨーロッパ船の入港地を平戸と長崎に限定。3代徳川家光の時代になると、オランダとの競争に敗北したイギリスが平戸の商館を閉鎖し、1624年にはスペイン船の来航が禁止された。日本人の渡航も抑制され、1633年には、第1回鎖国令を発し、奉書船(老中の許可状をもった船)以外の渡航が禁止され、1635年には第3回の鎖国令で日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止した。さらに、1636年には第4回鎖国令で貿易に関係のないポルトガル人を追放し、長崎に出島をつくりポルトガル人を移住させるなど鎖国体制を強化した。

こうしてキリスト教徒への弾圧と鎖国政策が強化されていく中で、1637年島原の乱が起こった。これを鎮圧した幕府は、1639年の第5回鎖国令でポルトガルのガレオタ船の来航を禁止し、1641年にオランダ人を長崎の出島に移して、日本人との自由な交流を禁じ、長崎奉行の監視下におき、鎖国を完成した。

幕末の対外関係 †

アヘン戦争よるの敗戦に驚愕した幕府は、異国船打ち払い令を修正して水給与令を発布すると同時に、洋式訓練を採用して軍備を整え始めた。その頃、オランダ国王の開国勧告が送られてきたが、幕府は鎖国の方針を変更することはなかった。その後、太平洋の捕鯨のために、日本の開国を望んだアメリカは、ペリーを日本に派遣した。浦賀に来航したペリーは、大統領フィルモアの国書を幕府に渡し、翌年その回答を得ることとして、日本を去った。その直後、ロシアの使節プチャーチンが長崎に来航したが、幕府は、これまた要求を拒絶した。

1854年に再度浦賀に来航したペリーの強圧的な外交交渉の結果、日本はアメリカと日米和親条約を締結して、下田、箱館の2港の開港、下田に領事館を開設することなどを定めた。ついで、イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を締結した。ロシアと結んだ日露和親条約では、国後、択捉、歯舞、色丹のいわゆる南千島の北方四島は日本領、ウルップ以北の北千島はロシア領とすることで、国境の確定を行った。和親条約にもとづいて、下田に着任した総領事ハリスは、イギリス、フランス、ロシアがアロー戦争クリミア戦争に忙殺されている間を利用して通商条約締結に務め、1858年ついに日米修好通商条約の締結に成功した。ただし、大老井伊直弼が条約の勅許を得ず調印に踏み切ったため、安政の仮条約ともいう。この条約の交換のために新見正興を正使とする使節団が米艦ポーハタン号で渡米し、勝海舟らがオランダより購入した咸臨丸を操船して随行した。この頃、オランダ、イギリス、フランス、ロシアとも同様の条約を締結したが、これらを総称して、安政の五カ国条約という。

通商条約の締結以後、外国貿易が盛んになり封建的封鎖経済から世界的資本主義経済に組み込まれた結果、マニファクチャの飛躍的発展がもたらされたが、同時に物価の高騰、金の流出、市場の混乱などもおき、下級武士や庶民の困窮が生じた。米国公使館員ヒュースケン襲撃事件、英国公使館焼き打ち事件がおきたのは、こうした経済的混乱と困窮が原因。また、幕末の五品江戸廻令の発布も市場混乱と物価騰貴に対する江戸の問屋の要請を受けた結果であった。






2007-03-10 (土) 21:44:49 (3934d)