大恐慌

「大恐慌」についてのメモ。大恐慌とは…
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大恐慌 †

1929年10月(昭和4)、ウォール街のニューヨーク株式市場大暴落を契機として起こった世界的な恐慌。1933年まで続いて、ソ連を除く世界全体を巻き込んだ。

大恐慌とニューデイール政策 †

1929年10月24日(暗黒の金曜日),ニューヨークの株式暴落に端を発した恐慌は未曽有のものに拡大していった。工業指数(1913年=100)では,182.6(1929年)が81.2(1932年)へと,約55%も下落した。卸売物価も同様で,その指数は140(1929年7月〜9月)が85.7(1932年2月)へと,約39%下落した。国民総生産(GNP)も,1929年1044億3600万ドルが1933年559億6400万ドルに大きく低下している。

 これに対し,フーバー大統領は経済に「人為的」な干渉をしない立場を堅持した*1。そのため失業は,1929年に155万人にすぎなかったものが,32年に1283万人,33年に1476万人にも増加している。ただ,彼は手をこまねていたわけではない。33年1月には「復興金融会社」を設立したが,これは大企業への援助にとどまった。

ニューディール

 フーバーの均衡財政に代わって,ルーズベルト大統領はニューディール政策による救済と再建を主張した。この政策の特徴は,次のようなものである。

  1. 国内恐慌原因論に立脚して政策を進めた。恐慌の原因を国内の過剰生産問題にあると捉え,この解決のためには,…他紊欧砲茲觜愬穃倭加,∪源債汗阿砲茲辰胴駝噂蠧世侶弉菘再分配を行なうという,国内を豊かにする経済ナショナリズムに立脚するものであった(それに対してフーヴァーは恐慌の国際性を強調し,国際均衡の回復を重視して,金本位を堅持し,世界経済会議の開催を主張していた)。
  2. 政府の経済への積極的介入
  3. 独占の容認

 彼は以上の三施策に沿って,重要法案( ’聖調整法,▲謄優掘七銘開発公社法(TVA),A換饂唆班興法)を議会に提出した。その後,上記の きの法案は最高裁で違反判決を受けたので,△蛤眄支出政策,社会経済改革的政策に恐慌の打開策を見い出した。しかし,1937〜38年恐慌は阻止できず,第二次大戦をむかえた。

(今日の「サンベルト」の繁栄は,ニューデイール期にその種が蒔かれた)。


*1 彼自身は開明的官僚として,連邦政府の手立てが経済過程に一定の効果のあることを認めていた。ただ政府部門が民間部門を脅かすことを恐れる意見に傾き,支出拡大に消極的になり,均衡財政に固執した。1923年の「景気循環と失業」という彼の報告書は,ニューディールに近い考え方であった





2007-03-10 (土) 21:44:54 (3762d)