大正時代

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大正時代 †

大正時代〜昭和 †

 大正時代の幕開けは、護憲運動で始まった。日露戦争後は、藩閥勢力を背景とする桂太郎立憲政友会総裁の西園寺公望が交代で政権を担当する「桂園時代」が続いていた。第二次西園寺内閣が、陸軍二個師団の増設拒否をきっかけに倒れ第三次桂内閣が成立すると、第一次護憲運動がおこり、桂内閣を退陣させた(大正政変)。

 大隅内閣の時に第一次世界大戦が勃発する(1914年)と、日本も連合国側として参戦するとともに、大戦の混乱を利用して、中華民国政府に対して、対華二十一ヵ条の要求をつきつけ、中国における特権を承認させた。大戦末期の寺内内閣が米騒動で崩壊した後をうけた原敬内閣の時に政党内閣が実現するが、ふたたび官僚内閣が続くと、憲政の常道が樹立されることとなり、政党政治はその後五・一五事件で犬養内閣が潰れるまで続くこととなる。この護憲三派内閣の時に、普通選挙法が成立するが、同時に治安維持法を普選法の歯止めとして成立させた。これは、国体の変革、私有財産否認の結社を禁止し、後に共産党弾圧に利用される。

 第一次世界大戦による戦争景気は、戦後の反動不況を招き、さらに1923年の関東大震災による京浜工業地帯の崩壊でこの不況は慢性化した。そうした社会不安の増大の中で、治安維持法に死刑が追加され、日本人による朝鮮人の役役事件や労働運動弾圧の目的で大杉栄伊藤野枝が惨殺されるなどの事件もおきた。

 昭和に入ると、不況は一層深刻化。 !927年には、震災手形の処理をめぐる国会中の片岡蔵相の失言から、経営不良の銀行が明らかとなり、銀行の取付け騒ぎが起こった。また、鈴木商店への不健全融資で台湾銀行が休業に追い込まれたことを発端として経済界、金融界が混乱し金融恐慌が生じた。第一次若槻内閣は、金融恐慌の処理に失敗して退陣し、田中義一内閣のモラトリアムと日銀からの融資で、一応金融恐慌は処理されたが、不況はその後も好転せず、貿易の輸入超過状態は続いていた。浜口雄幸内閣が、産業合理化の一連の改革の中で、金本位制への復帰として金解禁を断行したが、1929年の世界恐慌の影響で失敗し再び恐慌状態に陥ることとなった。ここに、農村の疲弊を中心とする昭和恐慌が始まった。

 大戦後の慢性的不況が、次第にファシズム台頭の土壌をつくり出していく。中国への侵略は、幣原の協調外交から方針転換した田中内閣の積極外交の下、中国の北伐に干渉し、張作霖を爆殺する満州某重大事件がおこされた頃から本格化する。昭和恐慌下における農村の疲幣を背景として、1931年「日中15年戦争」の発端となる「満州事変」がおこされ、軍需景気による恐慌脱出が画策された。第二次若槻内閣の不拡大方針を無視した軍は、1932年に清朝最後の皇帝溥儀を執政として日本の傀儡政権の「満州国」を建国した。日本の行動を侵略と断定したリットン調査団の報告により国際世論は日本を非難したが、五・一五事件で犬養首相が暗殺され政党政治が崩壊すると、日本は国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を選択した。

 1936年に陸軍皇道派の青年将校による二・二六事件がおこされて以後軍部独裁体制が確立し、1937年の盧溝橋事件を発端とする日中戦争で、軍部は戦時体制の強化を進め、国家総動員法の成立、大政翼賛会の成立(政党解散)、大日本産業報国会の成立(労組解散)で日本ファシズム体制が確立した。その頃ヨーロッパでは、イタリアのファシスタ党とドイツのナチス党が独裁政権を樹立していた。日本が、独、伊と提携し、1940年日独伊三国軍事同盟を締結したことや、日中戦争打開のため、南進政策を強行したことが対米関係を悪化させ、1941年太平洋戦争に突入した。

 太平洋戦争では、日米の国力の差から次第に敗色濃厚となり、1945年、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした。戦後は、GHQの間接統治の下で政党政治が再開され、新選挙法により婦人参政権が認められ、日本でもようやく男女平等の普通選挙が実現。財閥の解体、農地改革により経済の民主化も行われた。朝鮮戦争による特需以後日本の経済は成長を続け、経済の高度成長を達成した。






2007-03-10 (土) 21:45:00 (3668d)