第一次世界大戦

「第一次世界大戦」についてのメモ。第一次世界大戦とは…
HOME > 第一次世界大戦

第一次大戦 … 第二次世界大戦

第一次世界大戦 †

  • 三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との間の帝国主義的対立や民族的対立などを背景として、ヨーロッパを中心に起こった最初の世界戦争。
  • 1914年6月のサラエボ事件が発端となり、ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアなどの同盟国と、イギリス・フランス・ロシア・日本・アメリカおよび三国同盟を破棄したイタリアなどの連合国とが対戦。
  • 1918年11月ドイツの降伏で同盟国側が敗北し、翌年パリ講和会議ベルサイユ条約が締結された。

第一次世界大戦の勃発 †

  • 帝国主義の下、列強による世界分割が進展して列強間の世界政策の対立が激化。英、仏、露間で締結された三国協商と、ドイツを中心とする三国同盟の対立が、国際緊張を高め、バルカン間垣を契機として、第一次世界大戦が勃発。
  • 三国同盟は、1882年にドイツ・オーストリア・イタリア間に成立し5年ごとに更新されていた。三国協商は、1894年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商の成立によって形成されたものであるが、これが可能となったのはイギリスが伝統的な「光栄ある孤立政策」を放棄したため。
  • ヴィクトリア女王の死後、イギリスは、1902年の日英同盟にはじまる、積極的な同盟政策を打ち出した。こうして三国同盟に対する三国協商の包囲網が形成された時、バルカン半島では緊張感が高まっていた。1908年にブルガリアがトルコから独立を宣言し、オーストリアもボスニア・ヘルツェゴヴイナを併合した。セルビアは、以前から大セルヴィア主義を掲げて両地の併合を狙っていたので、オーストリアに反感を抱き、ロシアも汎スラブ主義の立場から異義を唱えた。
  • これに対し、ドイツは三国同盟によってオーストリアを支持したので、国際政局は一気に緊迫の度を強めたが、この時はロシアの譲歩で事なきを得た。
  • しかし、1912〜13年二次にわたるバルカン戦争で、セルビアが領土を広げ、バルカンでの勢力分布が再編成されると、相互の対立が深まり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、一触即発の状態となった。1914年6月にボスニアの首都サラエボでセルビア人の青年によってオーストリアの皇太子夫妻が暗殺されると、翌7月にオーストリアはセルビアに宣戦し、第一次世界大戦が始まった。ロシアがセルビアを助けて動員令をかけたので、ドイツはロシアに宣戦し、日本も日英同盟を理由として協商側にたって参戦した。独、襖と同盟関係にあったイタリアは、イギリスとの秘密条約で、イタリア統一の際に残されたトリエステ、南ティロルなどの「未回収のイタリア」やアフリカの領土獲得を約束され、三国同盟を破棄し協商側について参戦した。
  • ドイツは、短期決戦を狙って二正面作戦(シュリーフェン計画)をとったが、東部戦線ではタンネンベルクの会戦でロシア軍を破ったが戦局を決定するには到らず、西部戦線では、マルヌの会戦でフランス軍の反撃に遭い、戦線は膠着状態に陥った。
  • アメリカは開戦以来中立を守りつつ、協商側に物資を供給し、巨利を得ていたが、ドイツの無制限潜水艦作戦を契機として、ドイツに宣戦。アメリカの参戦で、戦局は協商側に有利となった。1917年11月にロシア革命で誕生したソヴィエト政権は、単独にドイツとブレスト=リトフスク条約を締結し、他の国にも休戦を呼び掛けた。これに対抗して、アメリカのウィルソン大統領は、十四ヵ条の和平提案を発表。
  • 敗色濃厚となったドイツでは、キール軍港で水兵が暴動をおこしたのを契機として、反戦運動が全国に広がり、皇帝ヴィルヘルム2世を退位させ、共和国が樹立されて、その臨時政府と連合国の間で休戦条約が締結され、終結を迎えた。

ドイツ賠償問題 †

  • ドイツ共和国では、スパルタクス団(後のドイツ共産党)の暴動鎮圧後の総選挙で社会民主党(SPD)が第一党となり、エーベルト大統領の下でワイマール憲法が制定された。以後1933年のナチスの政権獲得までをワイマール共和国という。1921年のロンドン会議でドイツ(ワイマール共和国)の賠償総額は1320億金マルクと決定された。しかし、疲弊しきったドイツの経済状態では、多額な賠償の支払い能力はなかった。ドイツの賠償不履行を理由として、フランスは1923年ベルギーを誘って、ルールを保障占領した。ドイツは労働者のストライキで抵抗したが、工業生産の停止によって激しいハイパー・インフレーションを招き、ドイツ経済は破滅に瀕した。1923年、シュトレーゼマン内閣は全国の土地を担保に新通貨レンテンマルクを発行してインフレを克服しようとした。
  • 第一次大戦を契機に債権国に転じ、世界経済の中心となったアメリカは、ドイツの経済危機を救済することが、自国の利益にかなうと考え、1924年、外資導入と年賦支払い期限の延長を定めたドーズ案を提示し、実施した。さらにそれも不可能となったため、賠償額を4分の1に大幅減額したヤング案を提示したが、世界恐慌の発生で実施できず、1932年にスイスのローザンヌで会議を開き、賠償総額を当初案の約40分の1の30億マルクに切り下げた。しかし、ナチスが政権を獲得し、ヒトラーが不払い宣言をしたことにより、ドイツ賠償問題は、未解決に終わった。





2008-05-31 (土) 21:07:13 (3254d)