二月革命後成立した第二共和政府には、改良社会主義者のルイ=ブランらも参加し、国立作業場(失業者を公共事業へ就労させる制度)の設置、10時間労働制、労働者の団結権保障などの社会主義的政策もとったが、ヨーロッパ最初の普通選挙が実施されると、社会主義勢力は敗北。小土地所有者となって保守化していた農民の支持が得られなかったから。共和派の新政府が国立作業場を閉鎖すると、これに不満をもつ労働者が暴動をおこした(六月暴動)。共和派政府はこれを鎮圧後、新憲法を発布し大統領選挙を行った。
大統領選挙で大勝したのは、叔父ナポレオン=ボナパルトの栄光を背景にしたルイ=ナポレオンであった。大統領に就任後クーデターで独裁権を握り、1852年には国民投票で皇帝となりナポレオン3世と称した。以後を第二帝政(1852-70)と呼ぶ。第二帝政は、強大な軍事力、警察力を背景に、産業資本家、労働者、農民の利害対立や勢力の均衡を利用した独裁政治(ボナパルティズム)。
ナポレオン3世は、国内では産業の保護育成に努めるとともに、外交政策では、国民の信望を得るために一連の外征を進め、成果を収めた。しかしメキシコ遠征の失敗で信望を失い、さらにビスマルクの挑発を受けて普仏戦争をおこして大敗し、第二帝政は崩壊。
帝政崩壊後、国防政府が成立して対普戦争を継続する。国防政府の降伏後、ティエールを首班とする臨時政府が成立し、アルザス・ロレーヌの割譲などを条件にドイツ帝国と不利な講和をはかると、屈辱的な講和に反対するパリの急進的小市民と労働者は、1871年3月18日パリ=コミューンといわれる自治政府の樹立を宣言。
この自治政府は、ブランキらの急進的社会主義者に指導された世界最初の社会主義政権であったが、政府軍とドイツ軍によって鎮圧された。
1875年に共和国憲法が制定され、第三共和政の基礎が確立するが、その後も政局は不安定であった。
パリの急進的小市民と労働者によって樹立された自治政府で、ブランキらの急進的社会主義者に指導された世界最初の社会主義政権。