戦国の七雄の中から、最も西方に位置していた秦が商鞅ら法家の思想を採用して頭角をあらわし、政王の時、中国を統一した(前221年)。政は中国史上初の皇帝となり、郡県制を全国にしき、中央集権体制を確立し、中国歴代王朝の中国統治の範となった。劉邦(高祖)を始祖とし長安を都とした漢王朝は、当初封建制を地方に採り入れた郡国制を採用したが、呉楚七国の乱以後、武帝の時代には郡県制と変わらない状態となった。武帝の死後次第に漠は衰退し、世紀の初め外戚の王莽によって打倒され、周を理想とする新が建てられた。
赤眉の乱によって新が滅んだ後、漢の王族の劉秀が洛陽に都をおいて後漢を興し、光武帝として即位した。後漢は、西域都護の班超らの活躍で西域の支配権を拡大したが、2世紀中頃以降宦官と外戚の抗争に端を発した党錮の禁を経て衰退し、ついに五斗米道や太平道などの新興教団を母体とした黄巾の乱などの混乱の中で滅亡。