中国史/2

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中国古代帝国の成立 †

  • 殷は邑(都市国家)から発展した中国最古の王朝で、祭政一致の神権政治を行っていた。国事は、獣骨を用いた占トで行った。殿を倒した周は、支配地域に一族や功臣を封じる封建制度を確立した。紀元前8世紀頃から、西方の犬戎の侵入に苦しんだ周は、都を東方の洛邑に移した。これ以後を東周と呼ぶ。東周時代の前半は、尊王撰夷をとなえた覇者の支配した時代で、一般に春秋時代と呼ばれる。東周時代も後半になると周王の権威は無くなり、実力本位の戦国、時代となった。鉄器の使用と牛耕法の発達で農業生産が高まったことから、各国は、富国強兵に励み、次第に領土国家へと成長していった。諸侯が競って人材を求めたことで儒家、道家、法家などの諸子百家が輩出した。

 戦国の七雄の中から、最も西方に位置していたが商鞅ら法家の思想を採用して頭角をあらわし、政王の時、中国を統一した(前221年)。政は中国史上初の皇帝となり、郡県制を全国にしき、中央集権体制を確立し、中国歴代王朝の中国統治の範となった。劉邦(高祖)を始祖とし長安を都とした漢王朝は、当初封建制を地方に採り入れた郡国制を採用したが、呉楚七国の乱以後、武帝の時代には郡県制と変わらない状態となった。武帝の死後次第に漠は衰退し、世紀の初め外戚の王莽によって打倒され、周を理想とする新が建てられた。

 赤眉の乱によって新が滅んだ後、漢の王族の劉秀が洛陽に都をおいて後漢を興し、光武帝として即位した。後漢は、西域都護の班超らの活躍で西域の支配権を拡大したが、2世紀中頃以降宦官と外戚の抗争に端を発した党錮の禁を経て衰退し、ついに五斗米道や太平道などの新興教団を母体とした黄巾の乱などの混乱の中で滅亡。






2007-03-10 (土) 21:45:37 (3727d)