東アジア

「東アジア」についてのメモ。東アジアとは…
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東アジア †

  • アジア大陸の東部、太平洋に面する地域。極東とほぼ同義。

東アジア文化圏の形成と発展 †

(1)貴族社会の成立

後漢滅亡後、中国は、魏・呉・蜀の三国に分裂して抗争した。魏は、蜀を滅ぼしたが、将軍・司馬炎によって国を奪われる。司馬炎の建てた国が、晋である。晋は、呉を滅ぼして中国の統一に成功するが、八王の乱(帝位をめぐる一族の争い)などによって動揺し、五胡の一つである匈奴によって滅ぼされ、中国は再び分裂抗争の時代に突入。晋の滅亡後、華北では、異民族の五胡と漢民族の小国家が興亡を繰り広げた。五胡十六国時代である。この時代華北に仏教が浸透。その頃、晋の王族の司馬睿が江南で晋を再興し、建康に都した。これを東晋という。
この頃朝鮮半島では、北部に高句麗、南部に百済、新羅が分立。

華北の混乱は、鮮卑族の北魏によって統一される。この北魏の統一以後を、南北朝時代という。北観は、孝文帝の時代に、洛陽に遷都し、漢化政策(中国同化政策)を実施するとともに、魏の屯田制、晋の占田・課田法を受け継いで均田制を創始。一方、江南では、晋の東遷以後短期間に宋、斉、梁、陳の王朝が興亡した。この4王朝を南朝という。南朝では、揚子江の下流域の開発が進められ、貴族文化が発展した。三国時代の呉、東晋と南朝の4王朝は、ともに建康(のちの南京)に都をおいたことから、これらを総称して、六朝と呼ぶ。

この時代中国では次第に身分制の強い貴族社会が形成されていった。各王朝は、支配体制を確立するため、人材の登用、財政の確保を図らねばならなかった。そうした状況下において、官吏登用のために実施されたのが九品中正法。豪族は、この九品中正法を合法的に活用し、高位・高官を独占して門閥貴族を形成。異民族王朝の支配する華北では皇帝の下で貴族制による集権的支配が進み、漢民族の王朝の支配する江南では、貴族が武人を皇帝に擁立し、独自の貴族社会が形成された。

律令体制の成立

南北朝の対立は、北周の外戚楊堅(文帝)が統一し、隋を建国。隋は、大運河を建設して江南と華北を結び、試験によって官吏を登用する科挙を実施し、諸制度を整備して皇帝権の強化につとめた。

隋の制度を継承した唐は、長安に都をおき三省六部と呼ばれる中央官制や法律を整備して律令体制を確立する。律令体制は、農民に口分田、永業田を支給する土地制度の均田制と税制の租庸調制、兵農一致の府兵制を基礎とした。律令体制の盛期は、2代太宗の治政下で、貞観の治とよばれる。次の高宗の時代に新羅と結んで、百済、高句麗を滅ぼし朝鮮を制圧。この後、新羅は唐を宗主と仰ぎ、朝鮮半島を支配。

高宗の死後、一時、則天武后に政権を奪われるが、玄宗治世前半の善政の開元の治にいたるまで、唐は東アジアの政治・経済・文化の中心として国際的性格をもつ大帝国を形成。しかし、玄宗の晩年において安史の乱後は、律令体制を支える均田農民が没落し、大土地所有が進展し、国威は衰え始める。均田農民の没落は、均田農民の義務兵役を基礎とした府兵制の維持を困難にしたことから、兵制も募兵制に移行せざるをえなくなる。また、税制も戸を対象に現住地の現有財産に課税する両税法に移行する。この税制は、明代まで続いた。

唐末、地方に割拠していた節度使(異民族に備えた辺境の募兵軍団の指揮官)が各地に独立し、中国は再び分裂時代に陥った。唐末期、社会不安の増大する中で黄巣の乱が起こり、907年節度使の朱全忠により、唐が滅ぼされたからである。唐の滅亡後、華北に五つの王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)、華南に十の地方国家が興亡。この間、武断政治が行われ、貴族が没落し、佃戸制を基礎とした荘園の所有者で後の宋代に士大夫とか宮戸と呼ばれる新興地主が台頭した。この時代を五代十国という。この頃、朝鮮半島では新羅が衰亡し、高麗が起こり、王建が統一王朝をつくっていた。

後周出身の趙匡胤が中国を再統一し、開封を都としてを建国する。宋は、節度使を抑えて学識ある読書人の士大夫(高級官僚)を重用し、文治政治の採用による中央集権主義を図り、科挙も殿試(皇帝の最終面接試験)が加わって三試制が整備されるなど、君主独裁体制が確立。科挙の整備に伴って、官戸形勢戸と呼ばれた新興地主や豪商の師弟や統書人(学者、知識人)が多く登用され、官僚制は発達したが、文治主義のためにかえって軍事力が弱体化し、異民族の侵入を招き、その対策としての歳貢などで深刻な財政難に陥った。そこで、王安石の改革が断行されたのである。この改革は、司馬光らを中心とする保守的な旧法党の反対にあい、王安石は失脚。その後も新法党と旧法党の対立が続き、かえって国力が弱まることとなった。

北方民族の活動

10世紀は東アジア全体の転換期で、唐の文化的影響を受けた周辺諸民族が民族意識に目覚めて独立し始めた。契丹族の耶律阿保機の建国になる遼は、後晋の建国援助の代償としての華北の一部の燕雲十六州を獲得し、二重統治体制をしいた。達は、11世紀初頭には宋との間で「澶淵の盟」(せんえいのめい)を締結し、宋から歳貢を手にいれる。1125年、金に滅ぼされるが、一族耶律大石が西へ逃れ、西遼を建てた。

李元昊の建てた西夏は、宋と達との間で勢力を保ち、東西交通の要路をおさえ繁栄した。12世紀初頭に女真族の完顔の阿骨打によって建国された金は、宋と結んで達を滅ぼした後、華北に侵入し、皇帝の欽宗、前皇帝徽宗を拉致して宋を滅ぼした(靖康の変)。この時、宋の王族の一部が江南に逃れて、臨安を都として宋を再建。再建以後の宋を、南宋と呼ぶ。南宋は、金に奪われた華北の奪回を試みたが成功せず、岳飛らの主戦派と秦檜らの和平派が対立したが、和平派が主戦派を抑え、准河を国境として金と和睦した。

13世紀初頭にモンゴル族を統一したチンギス=ハンは、西方遠征を企て、西遼、ホラズム、西夏を滅ぼし、さらに金を攻めたが、遠征途上で病死し、2代オゴタイが遠征を継続して金を滅ぼす。オゴタイは、高麗を服属させ、カラコルムに都を定めた。さらに、バトゥに命じてヨーロッパ遠征を企てた。バトゥは、ワールシュタットの戦い(リグニッツの戦い)でポーランド、ドイツ連合軍を撃破し、南ロシアにキプチャク=ハン国を建国。4代マング=ハンの時に、フラグの西征が行われ、バクダードを占領してアッバース朝を滅ぼし、イル=ハン国が建てられた。モンゴル族は、優れた騎馬兵の活躍で大帝国を形成した。

東西にまたがる大帝国の形成や駅伝制が整備されたことなどで、東西文化の交流が活発に行われ、人の往来も盛んだった。13世紀には、教皇の使節・カルピニや、フランス王ルイ9世の使者ルブルックらがカトリック伝道でカラコルムを訪れ、フビライの時代にもヴェネチア商人マルコ=ポーロや、教皇の使節モンテ=コルヴィノが訪れた。

もともとモンゴル帝国は、チンギス=ハン以来の領土分封体制とその後の征服拡大によって内部分裂の芽をはらんでいたが、5代フビライ=ハンの即位をめぐりハイズの乱が起こると、分裂は決定的となり、4ハン国が分離する。モンゴルから中国にいたる地域は、フビライ=ハンの下で大都(後の北京)を首都にし、国号も中国風に元と改称し、1279年商宋を滅ぼして中国全土を支配下におさめる。元は、中国支配にあたって、中国風の中央集権体制をとったもののモンゴル至上主義が基盤であったことから、漢民族を圧迫する結果となり、漢民族の反感をかうことになった。高級官僚はモンゴル人や色目人(西域系)が独占し、儒学を軽視し科挙も当初は廃止したので、漢民族の士大夫層は打撃をうけた。

元代の中国農村では、末代に引き続き佃戸制が進展してきたが、遊牧民であったモンゴル人は中国の農耕社会に同化することができず、徴税や商品課税によって財政を維持したので、重税の賦課や、交鈔の乱発によるインフレ発生が農民を苦しめ、元末には農民反乱が発生する。白蓮教徒による紅巾の乱を指導した朱元璋によって、元は滅ぼされ、残存勢力がモンゴル高原に逃れ、北元を称した。

征服王朝

北方民族が中国を征服した後、自民族固有の社会体制を維持したまま、中国的統治体制を樹立した王朝。遼、金、元、清をさす。北魏は、北方民族の王朝であるが、中国同化政策をとったので、該当しない。

モンゴル至上主義

  • 支配階級
    1. モンゴル人 1.4%
    2. 色目人 1.4%
      • 高級官僚として財政、文化面を掌握
  • 被支配階級
    1. 漢人 13.8%
      • 金朝支配下の女真人、契丹人など
    2. 南人83.4%
      • 南宋の支配下にいた漢民族

4ハン国 †

国名領域首都滅亡
オゴタイ=ハン国西北モンゴルエミールチャガタイ=ハン国に吸収
チャガタイ=ハン国中央アジアアルマリク内紛で衰退後、ティムールにより滅亡
キプチャク=ハン国南ロシアサライモスクワ公国の独立で解体
イル=ハン国西南アジアタブリーズティムールにより滅亡





2007-03-10 (土) 21:46:20 (3878d)