東方問題

「東方問題」についてのメモ。東方問題とは…
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東方問題 †

19世紀の近東、バルカンでは、「東方問題」がおこっていた。

「東方問題」に積極的に関与し、南下政策を推進するロシアは、インドへの道を確保しようとするイギリス、
北アフリカへの勢力拡大を狙うフランス、
バルカン半島を狙うオーストリアの政策と対立。

1831年にトルコ=エジプト戦争がおこるとロシアはトルコを援助して南下政策を遂行し両海峡の自由航行権を得たが、イギリスの巧妙な外交(パーマストン外交)によって両海峡の中立化がロンドン会議で決められ、ロシアの野望は挫折。
しかし、ロシアは1853年トルコ領内のギリシア正教徒保護を口実にトルコと開戦。クリミア戦争。
ロシアは英、仏、土の連合軍に破れ、パリ条約で黒海は中立地帯とされ、ロシアの「南下政策」はまた失敗に終わった。

クリミア戦争敗北後、ロシアのアレクサンドル2世は資本主義の発展と革命回避の目的から、1861年に農奴解放を断行し、国民の不満をそらすため再び「南下政策」を企て、露土戦争をおこす。サン=ステファノ条約で、ブルガリアはロシアの保護下に入り、バルカン半島におけるロシアの優位が確認された。地中海東部の支配を狙うイギリスとバルカンの権益に関心をもつオーストリアはロシアの南下に強い抵抗を示し、「誠実な仲介人」と自称したビスマルクを議長とするベルリン会議で、サン=ステファノ条約は破棄され、ロシアの南下は三たび挫折した。一方、オーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴビナ領有を認められ、バルカンに対する影響力を強めた。そのためロシアは、三帝同盟を捨て、ドイツと敵対するフランスに接近し、バルカン問題という火種を抱えながら、第一次世界大戦へとむかう。

ロシア南下政策の目的

国内の矛盾を外にそらす狙いや穀物販路の不凍港を確保するため。中でも黒海、地中海への出入口となるボスポラス・ダーダネルス海峡の確保を狙っていた。

ナロードニキ運動
クリミア戦争の敗北後、政府批判が強まり農民暴動が続き社会主義運動も始まってきたので、アレクサンドル2世は、そうした動きを迎えるため農奴解放令をだした。しかし、この改革は不徹底であったため、70年代になると知識人や学生により「ヴ=ナロード(人民の中にはいれ)」をスローガンとする農民啓発運動のナロードニキ運動がおきる。さらに、1860年代から発生していたニヒリズム(一切の権威、価値を否定する虚無主義)がバクーニンらのアナキズム(全ての社会権力を否定する無政府主義)と結合したテロリズムが横行することとなる。

ベルリン会議でのドイツの目的
ビスマルクは、列国を対立関係におくことと、各国がドイツと友好関係を保つことを期待して仲介を行った。ロシアのバルカン政策と、イギリスのトルコ保全政策が衝突し、それをビスマルクが利用した。しかし、独露関係は悪化した。ロシアは、三帝同盟を捨てドイツと敵対するフランスに接近し、第一次世界大戦へとむかうことになった。






2007-03-10 (土) 21:46:26 (3700d)