日本資本主義論争

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日本資本主義論争 †

昭和2年〜12年(1927〜1937)ころ、日本資本主義や明治維新の性格規定をめぐり、主にマルクス主義経済学者・歴史学者の間で行われた論争。

封建遺制を重視し二段階革命論を主張する講座派と、一段階革命論を主張する労農派とが激しく対立した。

日本のマルクス経済学/日本資本主義論争 †

  • 『資本論』に基づき日本資本主義の歴史的特性をどう理解すべきか? をめぐる論争。社会主義の運動路線とも密接に関連し、より直接的に実践的意義を有していた。
  • 日本のマルクス経済学者は、講座派(封建派)とと労農派とに分かれ,直接,間接にこの大論争に参加していた。

講座派 †

 講座派の主要な論客には,野呂栄太郎(1900−1934),平野義太郎(1897−1980),山田盛太郎,羽仁五郎(1901−1983),服部之総(1901−1956)らがいた。
 彼らは,日本共産党にモスクワのコミンテルンから伝えられた1927年ないし32年のテーゼ(政治綱領)を指針としていた。それらのテーゼでは,ロシア革命にいたる変革の経線と同様に,日本の社会変革もブルジョア民主主義革命とその後の社会主義革命との「二段階革命」が必要であるとしていた。この路線を支持し,ブルジョア民主主義革命の必要を示すには,明治維新を封建的土地所有のたんなる再編過程とみなし,その後の農村に農民の封建的ないし半封建的搾取が存続していることをあきらかにしなければならなかった。

  • たとえば,『日本資本主義発達史講座』(1932−33)は,こうした見地にたった講座派の研究者の結集を示すものであった。これに執筆した論文をあらためて出版した山田盛太郎の『日本資本主義分析』(1934)は,講座派の理論と分析を代表する著作をなしている。

 講座派の影響は,日本の社会の封建的要素に注目する多くの小説や,明治以降の天皇制を絶対主義と規定する政治学や歴史学,さらには経済史の分野でイギリス近代の独立自営農民からの明るく伸びやかな市民社会の成長を対比的に強調した大塚久雄(1907−)にはじまる大塚史学などに広くおよんでいた。

労農派 †

 この「正統派」的講座派に対立して,労農派の研究者たちは,日本は明治維新以後すでに資本主義社会として発達してきており,したがってまた直接に社会主義革命に向かうことができるという「一段階革命」路線を支持していた。

  • 1927年12月に創刊された雑誌『労農』が彼らの機関誌の役割を果たした。そこでは明治維新は一種のブルジョア革命であったとみなされ,その後の高額現物小作料も,半封建的搾取によるものではなく,小農のあいだの商品経済的競争から説明される。
     主要な論客に,堺利彦(1870-1933),山川均(1880−1958),猪俣津南雄(1889−1942),荒畑寒村(1887−1981),向坂逸郎らがおり,またこれに同調的な学者グループとして大内兵衛(1888−1980),櫛田民蔵,有沢広巳(1896−1988),土屋喬雄(1896−1988),宇野弘蔵らがいた。
     その見解は,翌年1928年に結成された無産大衆党や1931年結成の全国労農大衆党,さらには戦後の日本社会党左派の路線を支える役割を果たしていた。

 こうした両派の対立による日本資本主義論争は,価値論,地代論をめぐる論争とあわせて,1920年代,30年代の日本の社会科学研究上の大きな焦点となり,マルクス経済学の研究を理論と実証の両面にわたり促進する作用を有していた。

  • しかし,日本の軍国主義化がすすむなかで,マルクス経済学の研究はくりかえし苛酷な弾圧をうけ,ほとんどすべてのマルクス経済学者は大学から追放され,大学の内外にわたりその研究活動は抑圧され,禁止されていった。
  • 伊藤誠・編『経済学史』有斐閣,265〜





2007-03-10 (土) 21:47:13 (4484d)