こうした状況で、オーストリアのリヒャルト・クーデン・カレルギー伯爵は「汎ヨーロッパ」を提唱した(1923年)。
カレルギーは、世界をアメリカブロック、英国ブロック、ソ連ブロック、アジアブロック、ヨーロッパブロックの5つに分けて、その中で欧州が衰退した理由として、他のブロックがどんどん力をつけているのに対して、欧州は第一次大戦の影響から脱することができないことが大きいと分析した。
これを克服するために、小国に分かれて覇権を競う欧州の状況を打開し、アメリカのような欧州合衆国の設立を目指すべきだと呼びかけた。
それまでは理念先行だった欧州統合論を政治運動に昇華させた点に大きなポイントである。自らの提案を出版するとともに、汎ヨーロッパ連合を設立し、各国にも汎ヨーロッパ協会を設けられた。
カレルギーの欧州統合論は段階論であった。
カレルギーは、ドイツとフランスの協力関係を強調した。
1926年にはウィーンで26カ国が参加した第一回汎ヨーロッパ会議が開かれたが、ヒトラーの登場とともに運動は挫折し、カレルギー自身もアメリカに亡命せざるを得なくなった。