不平等条約

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不平等条約 †

強国が弱小国に対しその優越的な立場から強制的に結ばせた不平等な内容の条約。

不平等条約改正の経緯 (日本) †

  • 1871年 岩倉遣外使節団
    • 条約改正予備交渉(失敗)。内治優先方針変更。
  • 1878年 寺島宗則
    • 関税自主権の回復を目的。政府部内の反対や独、英の反対で失敗
  • 1879年〜1887年 井上馨
    • 治外法権の撤廃を目的、外人判事の任用、欧化主義。民権派の批判(三大事件建白)を浴びる。
  • 1888年〜1889年 大隈重信
    • 治外法権の撤廃を担う(アメリカ、ドイツ、ロシアと成功)、外国人判事は大審院に限定。大隈へのテロで挫折。
  • 1891年 青木周蔵
    • 法権、税権の6年後回復(治外法権の撤廃につき英国の同意)。大津事件で辞職。
  • 1894年 陸奥宗光
    • 治外法権撤廃に成功、関税自主権の一部回復。日英通商航海条約調印(1899年 発効)
  • 1911年 小村寿太郎
    • 関税自主権の完全回復。日米新通商航海条約調印。

不平等条約 †

明治政府にとって重要な外交課題は、国交回復、国境確定、条約改正であった。幕末に締結された安政の仮条約が不平等条約であったことから、明治政府は、治外法権の撤廃、関税自主権の回復を目標に条約改正に取り組まねばならなかった。

政府は、1871年岩倉遣外使節団を派遣し、条約改正予備交渉に着手したが失敗した。

国交問題に関しては、正式に国交のなかった清と交渉し、1871年にわが国はじめて対等の条約となる日清修好条規を締結した。また、日本の開国後も鎖国を堅持していた朝鮮にも修好を求めたが、保守主義者である大院君(国王の父)の意向もあって、朝鮮側は応じなかった。

こうした朝鮮の鎖国排外政策を武力で打破し国交を開こうとする、西郷、板垣らの征韓派の主張は、大久保、木戸らの内治派の反対で実現しなかった。しかし、征韓論争後も、朝鮮開国の機会
をうかがっていた政府は江華島事件を契機として、1876年朝鮮に日朝修好条規を締結させた。これは、日本が領事裁判権・無関税特権をもち、朝鮮からみると不平等な条約であり、その後日本の権力が朝鮮へ侵出する前提となった。

 北方の国境確定は、幕末のロシアとの通商条約で千島列島の択捉島以南は日本領、ウルップ島以北はロシア領、樺太は両国雑居の地となっていたか、明治政府は、財政難と英米の勧告をかんがみて、榎本武揚をロシアに派遣して、1875年に樺太千島交換条約を締結し、樺太をロシア領、全千島を日本領とすることで妥協した。

 欧米諸国を相手にしての正式の条約改正交渉は、寺島宗則外務卿の時に開始され、関税自主権の回復で米の賛成を得たが、英・独の反対で不成功に終わった。治外法権の撤廃を狙って欧化政策を推進した井上馨は、外国人判事任用を条約案に盛り込み民権派の批判(三大建白)を始め内外の非難をあびて辞職を余儀無くされた。次いで外務大臣となった大隈重信は、法権回復を第一に交渉に臨んだが、大審院に限定したとはいえ外国人判事の任用が憲法違反であると反対をうけ、爆弾テロで負傷して辞職した。

 青木周蔵が外務大臣に就任すると、条約実施後6年での法権・税権の回復を狙って交渉に臨んだが、英国の同意は得たものの、大津事件のために辞職を余儀無くされ、交渉は中断することになった。陸奥宗光が第二次伊藤内閣の外相になると、法権回復に照準を定め、各国別に交渉する方針とした。その結果、日清戦争直前の1894年に治外法権を完全に撤廃した日英通商航海条約の調印に成功した。さらに関税率の一部引き上げにも成功し、居留地の廃止と外国人の内地雑居が実現した。
 陸奥外相の条約改正後は残された関税自主権の回復が改正の眼目となったが、第二次桂内閣の外相の小村寿太郎が、日露戦争後の国際的地位の向上を利用して、関税自主権回復に成功した。






2007-03-10 (土) 21:47:57 (3671d)