文治政治

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ぶんち/ぶんじ

文治 †

  • 武力によらず、教化・法令などによって世を治めること。武断。

文治政治 †

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  • 徳川家光まで三代の間、幕藩体制確立のために武断政治がとられたために改易が続出し牢人が多数発生した結果、家元の死後、幼君家網の治下に由井正雪を中心とした不平牢人らの幕府転覆計画の慶安の変がおきた。更に、明暦の大火がおきたこともあり、社会不安がたかまった。そのため、家網を補佐する保科正之、酒井忠清らによって末期養子の禁の緩和、殉死の禁止などの宥和政策への転換が図られた。

こうした宥和政策は、文治政策の具体的な現れであったが、文治政策が盛んになるのは5代綱吉の時。綱吉は、治政の前半には林羅山の孫の信篤(鳳岡)を大学頭に任じて朱子学を官学化し、湯島聖堂の建設をするなど儒教政治に励み、幕府の権威確立に努めたが、大老の堀田正俊の死後、側用人の柳沢吉保を重用して政治を怠り、かえって幕府権力の動揺をもたらす結果となった。

  • 悪政の典型
    • 自身の後継者たる男子が生まれない事を契機とした生類憐みの令
    • 勘定吟味役の荻原重秀の献策になる貨幣の改悪(貨幣の金の含有率の低下)

損害の死後、6代家宝、7代家継の治下に侍講の新井白石によって正徳の治が行われ、幕府の典礼を公家風に改め、朝暮の融和の為に閑院宮家を創設するなど文治政策を推進するとともに勘定奉行の荻原重秀を罷免して、正徳金銀の鋳造など金の含有率を高め、更に海舶互市新例(長崎新令)を発して貿易の制限による金銀の流出の防止を図りインフレ抑止に努めた。

この頃は、諸藩でも藩政確立の為に、文治政治がおこなわれた。朱子学者の山崎闇斎を登用した会津藩、明の遺臣朱舜水を登用した水戸藩、朱子学者の木下順庵を登用した加賀藩、陽明学者の熊沢蕃山を登用した岡山藩がそうした代表例。






2007-03-10 (土) 21:48:20 (4579d)