吉宗の没後、9代家重、10代家治と政治力の欠落した将軍が続いたため、再び側用人政治が復活し、側用人出身の田沼意次が老中として権力を欲しいままにした。
田沼は、株仲間(同業組合)の公認による冥加、運上の増収、工藤平助の赤蝦夷風説考の影響をうけたロシアとの交易計画など商業資本の活用を基本とした経済政策を実施したが、結果として賄賂の横行と政治の腐敗を招き、町人請負新田の印旛沼、手賀沼干拓の失敗や、息子の若年寄田沼意知が佐野政言に刺殺されたのを契機に失脚して、田沼時代は終りをつげた。
天明の飢饉を契機とした打ちこわしがおこり騒然とした世相の中で、田沼に変わり幕政を担当したのが、吉宗の孫で三卿の一つであった田安家出身の白河藩主松平定信である。定信は、祖父の吉宗の享保の改革を範とし、11代徳川家斉を補佐して、風紀の矯正と荒廃した農村の再建を重点とする諸政策を実施した。この政治改革を寛政の改革という。この改革は、「白川の清きに魚の住みかねてもとのにごりの田沼恋ひしき」、「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、文武といふて夜も寝られず」との川柳に風制された如く、厳格すぎて反発を受けて失敗。
定信失脚後、家斉は親政を実施し、将軍を家慶に譲ったのちも大御所として実権を握り続けた。文化・文政時代と称される家斉の時代は、近藤重蔵、間宮林蔵らの樺太探検、伊能忠敬の蝦夷地測量、レザノフの長崎来航への対応、フェートン号事件などの外国船の乱暴に端を発した異国船打払令など対外策を打ち出すが、内政では特に後半になると退廃の極に達し、天保の飢饉に際しては、大塩平八郎の乱、生田万の乱が起き、幕府の権威は失墜した。
家斉の死後、浜松藩主の老中水野忠邦は、危機に瀕した幕府財政の再建をめがして農村の復興を重点とした改革を実施した。この改革を天保の改革という。しかし、この改革も上知令に対する大名の猛反発などから失敗し、忠邦は失脚。