幕末

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江戸幕府の滅亡 †

13代徳川家定の継嗣問題に端を発した南紀派と一橋派の対立は、井伊直弼の大老就任で南紀派が勝利して14代家茂が就任。
継嗣問題と日米修好通商条約の違勅問題が絡んで安政の大獄とよばれる政治弾圧に発展。反幕派は、こうした弾圧に憤激して、水戸浪士らが井伊大老を桜田門外で暗殺した。桜田門外の変

井伊の暗殺後、井伊派の老中安藤信正を中心として、幕府と朝廷の融和をはかり、反幕勢力を抑える為に公武合体が推進され、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の夫人に迎えた。しかし、この和宮降嫁は、尊皇攘夷派の反感を買い、安藤信正が坂下門外の変で水戸浪士に襲撃されてのち失脚するにいたり、幕府による公武合体運動は失敗。

このような事態の中で、朝廷、幕府双方につながりの深かった外様の薩摩藩では、独自の公武合体の立場から島津久光が勅使を奉じて江戸に下り幕府改革を要求した。幕府は、薩摩藩の意向をいれて、越前前藩主松平慶永を政事総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に任命し、また京都所司代の上に京都守護職を新設して会津藩主松平容保をこれに任命するなど幕府の改革に努めた。文久の改革。

公武合体運動に対して、攘夷運動も長州の高杉晋作桂小五郎ら下級武士を中心に活発に展開された。こうした長州藩の動きに対して、既に薩英戦争で攘夷の愚を悟っていた薩摩と会津が手を携えて長州勢力や急進派の三条実美らを京都から追放したため、長州は1864年禁門の変をおこしたが敗北。

幕府は、禁門の変の責任を問うために、第一次長州征伐を実施。この頃、英、仏、米、蘭の四国艦隊の下関砲撃事件で窮していた長州は、幕府に恭順。

第一次長州征伐後、イギリスより帰国していた伊藤博文、井上馨と高杉晋作らが中心となって、藩政改革が実施され、高杉によって百姓、町人をまじえて編成された奇兵隊の充実、大村益次郎(村田蔵六)らによる兵制改革などにより、長州は体制を強化した。

第二次長州征伐は、土佐藩坂本竜馬の仲介で薩長連合が成立したことや、将軍家茂が病死したことにより失敗。このような情勢のなかで15代将軍となった徳川慶喜は、フランスのロッシュの協力のもとで幕府の改革再建に努めたが、イギリスのパークスは、幕府の無力を見抜き、天皇を中心とする政権の樹立の実現のために西南雄藩に接近していたため、幕府と薩摩・長州の対立には、英仏の東アジアにおける帝国主義的覇権争いの代理戦争の色彩を帯びる事になった。
こうした事態を憂えた土佐藩の坂本竜馬、後藤象二郎は、前藩主山内豊信(容堂)に献策して倒幕派の機先を制する大政奉還を勧めさせた。公武合体論者であった孝明天皇の死と頼みとするフランスの対日政策の変更で打撃を受けていた幕府はこれをのんだ。大政奉還が朝廷に提出された慶応3年10月14日は同時に朝廷内の討幕派の岩倉具視が西郷隆盛、大久保利通らと提携して即位まもない幼少の明治天皇を白陣営に引込み、薩摩・長州両藩に討幕の密勅を出させることに成功した日でもあり、まさに江戸幕府滅亡を象徴する日であった。

幕末の社会情勢
 開国による経済的変動によって農村層の分解が進行し、貧農や都市下層民の生活がインフレによって危機に直面したことから、社会不安が高まった。こうした社会不安を背景に天理教金光教などの教派神道と呼ばれる民衆宗教が成立し、御蔭参りの流行を契機とした「ええじゃないか」の乱舞を生んだ。「ええじゃないか」は宗数的形態をとった民衆運動で、幕府の支配を麻揮させ、討幕運動にも影響を与えた。






2007-03-10 (土) 21:48:55 (5060d)