立憲政治

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立憲政治 †

  • 明治14年政変
    • 西南戦争期に木戸,西郷,大久保の「維新の三傑」が死亡した後,長州出身の伊藤博文・井上馨・山県有朋,薩摩出身の黒田清隆・西郷従道,肥前出身の大隈重信ら参議と,公家出身の大臣,岩倉具視・三条実美らによる集団指導体制となった。大久保政権発足以後、大蔵卿を務め,大久保暗殺で筆頭参議となった大隈が勢力を伸ばした。大隈がイギリスの政党内閣制を取り入れて国会を開設する意見書を出したことをきっかけに,プロイセン型の憲法を目指す伊藤などの薩長系参議と大隈との対立が急速に表面化し,北海道開拓使官有物払い下げ問題で薩長系参議は大隈を罷免(明治14年政変)。政府内では薩長優位が再確立したが.1890(明治23)年に国会を開設することが公約され,それまでに憲法を制定が確定した。
  • 内閣制度と憲法制定
    • 太政官制では制度上の権力と実際上の権力が分離しており.国務大臣(参議)と行政事務長官(卿)の関係が曖昧であるなどの問題点が指摘された。これを解消するため,伊藤の主導により1885(明治18)年12月に内閣制が導入された。
    • 憲法制度調査のため渡欧した伊藤は帰国後,憲法と周辺法規の起草に着手。伊藤は初代内閣総理大臣として政府の憲法最終章案を仕上げ,伊藤が初代議長となった新設の枢密院の審議を経て,1889(明治22)年2月に大日本帝国憲法が公布された。
  • 初期議会
    • 1890(明治23)年11月に召集された第1回帝国議会は自由党と改進党の民党2派が過半数を占め,予算案に大幅削減を加えようとしたが,第1次山県内閣は自由党土佐派を切り崩して乗り切った。,第2議会時は第1次松方正義内閣で,海相樺山資紀の「蛮勇演説」で船糾し,議会を解散した。この総選挙で松方内閣は多数の殺傷を伴った大干渉を行い,民党を半数割れさせたものの,その干渉の激しさは藩閥政府内部にも批判を生んで松方内閣は崩壊し,次の第2次伊藤内閣から.伊藤と自由党が提携を目指すようになった。
  • 日清戦争
    • 1894(明治27)年2日,朝鮮南部で排外主義的な新興宗教団体の東学党による反乱が起き,これを清国軍が鎮圧した後の処理をめぐって,同年7月25日,日清戦争が勃発。戦争は日本軍の圧倒的優勢のうちに進み,1895(明治28)年4月17日,日本と清団の間で下関条約が調印された。しかし調印6日後,ロシアがフランスとドイツを誘って,日本に遼東半島の返還を要求(3国干渉)。3国に対抗する力がないと判断した日本政府はこれを飲んだが,「臥薪嘗胆」をスローガンに軍備拡大に努めた。
  • 戦後政界
    • 日清戦争後,政府と民党の連携が本格的になる。伊藤首相は自由党の板垣退助を内相に迎え,次の第2次松方内閣は進歩党の大隈重信を外相とした。第3次伊藤内閣は,伊藤が自由,進歩両党との挙国一致内閣を目指したが折り合わず、自由・進歩両党が合同して憲政党を組織し対決姿勢をとると,大隈と板垣を後継に推して辞職。初の政党内閣である第1次大隈内閣が成立したが,旧自由党と旧進歩党の閣僚の分配をめぐって,組閣4カ月で崩壊。次の第2次山県内閣は軍部大臣現役武官制を設け,政党勢力の軍への浸透を防いだ。憲政党は旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂し,伊藤は憲政党と伊藤周辺の官界・財界人により1900(明治33)年9月,政友会を創立。





2007-03-10 (土) 21:49:36 (3641d)