cold war 冷たい戦争
第二次世界大戦後の米・ソ二大陣営の厳しい対立を表した語。武力は用いないが、激しく対立・抗争する国際的な緊張状態。
1962年ソ連ミサイル基地がキューバに置かれていることをアメリカの偵察機が発見したことから「キューバ危機」が起きたが、ミサイルの撤去を強硬に要求したアメリカ(ケネディー大統領)に対して、ソ連(フルシチョフ第一書記)が譲歩して危機は回避され、「緊張緩和(デタント)」が始まる。アメリカでは、すでに「ドル危機」が始まり、アメリカの経済的地位の低下が顕在化していたし、ソ連側でも社会主義国のソ連離れや中ソ対立がおきていたことから、両国とも「緊張緩和(デタント)」に向かわざるをえない状況にあった。まさに「緊張緩和(デタント)」は、米ソを二極とする戦後体制の崩壊と多極化の時代の始まりの象徴であったといえよう。
1971年ニクソン大統領が金ドル交換停止、輸入課徴金の設定を発表し、世界は「ニクソンショック」に揺れた。これは、IMF体制、GATT体制の放棄を意味し、変動相場制の下でのドル安時代の始まりを意味した。さらに、1973年に、世界をオイル=ショックが襲う。第4次中東戦争に際して、アラブ諸国がイスラエル支援の国々に対して原油輸出停止・削減の石油戦略を発動し、OPECも原油価格を4倍に引き上げたので、先進資本主義国経済は大混乱に陥った。
アメリカの凋落は、軍事面でも明らかとなっていた。1965年本格的にヴェトナムに介入したアメリカは、1968年に北爆を全面停止し、1973年パリで和平協定が結ばれた。アメリカの撤退後の75年には南ヴェトナムのサイゴンが陥落し、翌76年南北統一が実現した。アメリカの敗北の背景には、アメリカ国内でもベビー・ブーマーを中心に反戦運動が盛り上がったことがあるが、このヴェトナム戦争の後遺症は今でもアメリカに残っている。
1960年代以降社会主義諸国も困難を余儀なくされた。ブレジネフ体制の下で、ソ連は社会主義諸国を押さえつけた。チェコの自由化弾圧やアフガニスタン侵攻が代表的である。しかし、東ヨーロッパ諸国の自由化運動はしたたかに続いていた。東西ドイツも統一に成功する。ソ連でも、ゴルバチョフが共産党書記長になると、ペレストロイカが始まり、グラスノスチ(情報公開)などの民主化政策を模索したが、かえって民族自立の動きに拍車がかかり、ソ連は崩壊の方向に進むことになり、1991年8月の保守派クーデター失敗後、ソ連共産党は活動を停止し、1991年12月にはゴルバチョフが大統領辞任を余儀無くされて、1991年12月25日をもってソ連は消滅した。
一方、アメリカにおいては1991年1月に始まった湾岸戦争を指揮したプッシュ大統領が、国内経済の建て直しに失敗して、民主党のクリントンに破れた。こうして、アメリカは、ベビー・ブーマー世代の大統領をもつことになった。
かつて,東側(旧ソ連を中心とする社会主義諸国)と西側(アメリカを中心とする資本主義諸国)との間の政治・軍事的対立を基調とする諸問題をさして言った語。